2016年6月10日金曜日

原子爆弾投下の是非

 今回は、少し哲学的な話になりました。オバマ・アメリカ大統領の広島平和公園訪問の翌日、報道番組の特集を観ていたときの話です。

 ある被爆者の男性が、「オバマ大統領には謝罪をして欲しかった」と述べていました。オバマ大統領の訪問後の、NHKの報道では、被爆者のうち「謝罪をして欲しい」と感じているのは14パーセントいう統計が示されていました。そうだとすれば、この男性の意見は、「謝罪をしてもしなくてもどちらでもいい」、「謝罪をして欲しくない」の総数と比較して、少数派ということになります。ただし、ひとりひとりの価値観があり、被爆当事者である以上はそれに基づく理由があるはずであり、その意見を決して疎かにしてはいけないと思います。
 そのときわたしは、周囲のひとたちが放った言葉に不快感を覚えました。彼らは、「それは間違っている」と切り出して、「原子爆弾投下によって多くの人命が救われた」、「謝罪を求めることは間違っている」と話し始めました。
 そのときの話が、意見の違いを否定して、多様性を認めないものに思えました。わたしは、彼らの意見がどうであれ、他者の意見への接し方に対して、不快に感じました。

 わたしは、このときに感じた不快感の正体を考えることにしました。わたしの意見はどうなのか、アメリカ大統領は謝罪をするべきなのか。結論から言えばわたしは、アメリカ大統領は謝罪をするべきだと思います。そう考えるに至った道筋を説明します。

-「原子爆弾の投下によって多くの人命が救われた」という意見への不快感-

1.被爆当事者の意見を軽視している。
2.原子爆弾投下による犠牲を正当化している。
3.原子爆弾投下によって犠牲者が減少したという前提に根拠がない。
4.原子爆弾投下による犠牲者と、戦争の長期化による犠牲者は同一ではないので、ひとりひとりの置かれている状況が異なるにも関わらず、人数だけでその正当性を判断している。

 被爆当事者の意見を軽視してはいけないと思うことと同様に、原子爆弾投下を正当化する意見も軽視してはいけないと思います。そのため、「原子爆弾投下によって犠牲者が減少した」ということを前提として考えてみました。簡単化すると、「A.少人数のひとを殺す」、「B.多人数のひとを殺す」という選択肢から、Aを選択すると置き換えられます。これによって犠牲者が出たものの、その人数はより少なく抑えられました。しかし、その行為は誉められるべき性格を持っているでしょうか。少なくとも、Aの犠牲者に対しては謝罪をするべきではないでしょうか。そして、犠牲者の人数を抑えられたとしても、発生した犠牲については正当化できないと思います。
 オバマ大統領は戦後生まれであり、彼に直接の責任はないという意見もあります。しかし、国家元首である以上、部下の責任を上司が謝罪するのと同様に、直接の責任がなくても謝罪をするべき状況というのはあると思います。
 犠牲者の人数と謝罪の必要性は、別次元の問題であり、原子爆弾投下によって犠牲者がより抑えられたとしても、それにより謝罪が必要がないということでは決してありません。犠牲者の総数を減少させたかもしれないという称賛と、犠牲者を作り出したという批判は、論点が類似しているようで本質的に異なり、犠牲者の構成(軍隊と市民の比率)も異なるため、これらを比較して絶対的な答えが得られるものではありません。

 意見の違いを間違いと見るのなら、それは偏見だと思います。自分と違う意見に耳を傾けることで、反証を否定して説得力を増したり、或いは新たな価値観を見出だすことができるかもしれません。相反する立場のひとたちが意見を交えて、発展的な関係になれたらいいと思います。