2016年12月9日金曜日

亀虫と、1か月

 10月のできごと。見付けたら嬉しい、でも、少し迷惑なこともある昆虫との1か月。

【遭遇】・・・1日目(2016年10月3日)

 わたしは、室内で植物の鉢を覗いていました。すると、鉢の縁に一匹の亀虫がいました。霧を吹いてあった植物の中を通ったのか、所々湿っていた亀虫。植物は・・・、無事なようでした。

亀虫との遭遇、どこからきたの?
そのとき、亀虫を植物から遠ざけたかったわたしは、息で吹き飛ばしました。そして、植物の無事をより確認すべく、インターネットで亀虫の種類を検索しました。それによると、ホオズキ亀虫というようです。草食のようなので、鉢から出したのは正解でした。

ホオズキ亀虫というらしい、細身で奇麗?

【再会】・・・3日目(2016年10月5日)

 この日、とっさに思い付いた川柳。

  亀虫に
  優しくしたら
  住み着いた

 2日前に、亀虫を鉢から出して放っておいたのですが、戸は開けていたので、出て行くこともできたはずです。しかし、またしても亀虫は現れました。

 今度は、部屋に貼ってあるお札にいました。しかも、亀虫はお札の「運」の文字上にいたのです。わたしには、その亀虫がとても縁起のいい生き物に見えました。神様の使いとか化身なのかな?
 わたしは迷信深くはないのですが、いいように解釈することにしました。亀虫(運)が、わたしを見守ってくれている、優しくしたから。何だか、不思議な出会いでした。

【亀虫から学んだこと】・・・4日目(2016年10月6日)

 癒される。部屋の中に、緑があるって、いいよね。なんて思いつつも、亀虫が気になったわたし。
 相変わらず同じ場所にいることで、わたしの中で、その亀虫の神々しさが増しました。
 わたしが亀虫に息を吹き掛けてみると、左前足が動きました。よかった、元気そう。

 その後、少しして・・・。

 あれっ、亀虫は?
 さっきまでいた亀虫がいないことに気付きました。
 実は、その前に、亀虫を棒に乗せようとしたり、口に水を運んだりしたのですが、そのときには動きたがりませんでした。亀虫は、棒で突っつかれたから移動したのかもしれません。
 飛ぶ体力が残っていてよかった。亀虫が自分で外に出られるよう、戸を開けておくことにしました。

 この日に、亀虫から学んだこと。

  人間が何か手助けをしなくても、虫は生きている。
  だから、戸を開けておいて、あとは放っておけばいい。
  虫が入ってこないように、戸を閉めておくのがお互いのためになる。
  そして、虫が入ってくると、戸を開ける。
  そうやって、自然を、自然にしておく。

 当時読んだ本によると、「当然のことだが、人間は自然だ」といいます。解釈の仕方によっては、「人間は、自然と共に、自然にあるべきだ」ということになります。「人間(自然)が自然に手を加えることで、自然にいいことをしている」、なんていうのは、不自然な方法で自然に作用できるという人間の傲りなのかもしれません。

【亀虫のたくましさ】・・・10日目(2016年10月12日)

 椅子に座って眺めた景色に、またしても亀虫。無意識に口が開きました。
 右上の、柱の亀虫を見ながら、色々なことが頭を巡りました。「久しぶりだね」、「何日もこの部屋にいたの?」、「何も食べていないだろう」、・・・。そして、そのたくましさに、「お前、やっぱり凄いわ」なんて思いながら口を閉じました。

【亀虫の生命】・・・12日目(2016年10月14日)

 わたしは、植物の手入れをしていました。相手は生命、ぞんざいにはできません。

 すると、またしても、亀虫。「お前、部屋にいたのか」とその存在に気付きながらも、それまでのことを整理しました。戸を開け放して、部屋から出たのかと思っていたら、柱にいて、・・・そうか、何日も部屋にいたんだ。相手は生命、ぞんざいにはできません。

【成長】・・・13日目(2016年10月15日)

 そこにいたはずの亀虫が、目を離していた隙にどこかへ移動していました。飛んだのかもしれません。元気なことに感動すると同時に、わたしは亀虫の行方を知りたいと思いました。
 ここで大事なことは、自然を閉じ込めてはいけないということ。相手は生命であり、それは、植物も、亀虫も同じことです。先日は、部屋から出て行ったと思って戸を閉めてしまいましたが、見付け次第、また開ければいいんです。

 亀虫について書いていると、わたし自身の書き方が変化したことに気付きました。当時は、状況の説明をするという普段の書き方ではなく、口語調で、思ったことを、思ったままに書いていました。
 心の中のことを書くことによって、読み返したときに、当時の感情、感覚が頭に流れ込んでくるといいなんて思っていました。そして、状況の説明だけでは残せないことを、書き方を変えることで残そうとしていました。そういう書き方ができていれば、素晴らしいです。
 そして、心に浮かぶことを書き続けていれば、手は止まりません。そういえば、わたしが書く文章は長くなりました。亀虫といることで、わたし自身が成長していたのかもしれません。

【食べちゃったのか?】・・・16日目(2016年10月18日)

 亀虫が、植物の鉢に再び現れました。前回と同じく、鉢の縁にいた亀虫。鉢の縁を好むというより、鉢の縁にいるときに気付きやすいのかもしれません。
 わたしが「久しぶり」なんて思っていると、亀虫が植物の茂みに入り込みました。「ちょっと待って」、わたしは、茂みを掻き分けて進んだ亀虫を、楊枝を使って鉢の外側に押し出しました。亀虫が草食らしいことは知っていたので、申し訳ない気持ちではあるものの、鉢から出てもらいました。

茂みの中の亀虫、快適に暮らしているところ申し訳ないんだけれど・・・

 「喉が乾いただろう」、わたしは亀虫に霧吹きの水を垂らしました。そして、「わたしが気付く前に、植物の樹液を吸っていたかもしれない」、「お腹が空いただろうに、少し吸うだけならいいよ」、なんて亀虫の食料不足について考えていると、植物の茎の変色を見付けました。その付近を掻き分けると、数本の苗が変色していたり千切れたりしていました。「亀虫さん、お前、植物食っちゃったのか?」

 わたしは、亀虫に食べられたらしい苗を引き出しました。全部で4本。そのうち、1本は大きく変色して、また、1本は変色した部分から上が曲がっていました。そして、2本は千切れていました。他の部分を掻き分けて、変色している苗はこの付近に集中していたことが分かりました。「亀虫さん、本当に食っちゃったのか?」、亀虫への疑いが強まりました。

 鉢の外側にいた亀虫を、鉢から出すことにしました。しかし、楊枝で出そうとしても、亀虫は力強く抵抗しました。「亀虫、お前、植物を食べて栄養を付けたな」、亀虫への疑いが、確信に変わりました。

 楊枝で押して鉢から取った亀虫を、鉢から移動しました。しかし、部屋に住み着いた亀虫を邪魔物扱いして追い出すような気にもなれず、付近に置きました。

亀虫を移動、鉢には住み着かないで欲しい
結局のところ、出て行くかどうかは、亀虫の判断に委ねました。亀虫さん、部屋にいてもいいけれど、植物の鉢に居住しないでね。

 その後に、亀虫の活動が活発になりました。

 亀虫をよそ目に青々と茂った植物を見ていると、亀虫が部屋の敷居のあたりにいることに気付きました。
 亀虫が、敷居の方へ向かって進んでいきました。「亀虫さん、元の世界へ!」、「そう、自分の足で行け」
 しかし、敷居付近に到着した亀虫は、敷居と並行して歩いていきました。「あれ?」、「さあ、何を躊躇う」
 そして、亀虫は、戸を上り始めました。「凄い、どうやって登っているんだ?」、亀虫の動きは速くなっていました。「やはり、食ったな、お前」

壁を上る亀虫、元気いっぱい!
路頭に迷う亀虫。行くあてはあるのか。わたしが亀虫にできることはあるのかを問い直しました。仲間のいる自然の中に戻りたいのか、それとも、安全な室内にいる方がいいのか。

【冬の気配】・・・22日目(2016年10月24日)

 植物の冬越し用に、保温性のある容器に入れました。箱入り娘ならぬ、箱入り植物。亀虫は手を出せないかもしれません。

【もしや・・・】・・・28日目(2016年10月30日)

 それから、亀虫を見かけない日が続いて、外に出たんだと思っていました。

 部屋の椅子に座っていると、耳元、カーテンの向こうから昆虫の羽音か何かが聴こえました。カーテンを叩いても反応しないので捲ってみました。
 「亀虫、お前か!」、いてくれたんだね、しかも元気そう。これが亀虫にとっていいことなのかどうかを考えさせられました。しかし、わたしは、部屋に住み着くことを選んだ亀虫と再会したことを少しだけ嬉しく思いました。

カーテン越しの亀虫、元気そう!
興味を持ったことを記録していただけなのですが、まさか1か月近い付き合いになるなんて思いませんでした。

2016年11月9日水曜日

アメリカ大統領選挙、潜在的な世論

 アメリカ大統領選挙で、ドナルド・トランプが次期大統領に当選したことについて思ったこと。

 わたしは、先月にアメリカ大統領選挙の討論を視聴しました。わたしの興味は、共和党候補、ドナルド・トランプが本当に日本で報道されているような大統領の資質のない人物なのか知ることにありました。
 他国の政治家の話であり、どちらが選出された方がいいとか、とやかく言うつもりはありません。しかし、ドナルド・トランプがどういう人物かを見極めることは、批判を繰り返していた日本の報道の信頼性を確かめることでもありました。そういう意味で、アメリカ大統領選挙の討論を視聴することは重要でした。

 結論として、ドナルド・トランプは、日本で報道されるほど信頼できない人物ではないと思います。わたしは、アメリカ大統領選挙にそれほど注視していなかったので、先月の一度の討論で形成された候補の印象は、実際の人物像を的確に捉えられていないかもしれません。しかし、それでも自分なりの考えを持つことができました。

 そもそも、ドナルド・トランプとヒラリー・クリントンの支持率が拮抗する中で、日本のメディアによるドナルド・トランプを一方的に批判する見方に対しては疑いを持っていました。当該国で、それなりに指示されている候補を、日本で批判する。しかも、日本の視聴者の意見はメディアによって形成された世論が中心であり、候補の全体的な評価をよく知らずに批判しています。これは、噂を信じ込んで、事実を確認しないままに誰かを否定的に評価するという、危険な傾向だと思いました。
 メディアが報道の内容を一面的なものに偏重させることで、世論は各争点の中から一部の争点の重要性のウェイトを大きくするよう形成されます。これを、メディアの「プライミング効果」というそうです。

 アメリカ大統領選挙の討論の後に、夕方の報道番組が点いていました。わたしは、さっき観たから知っているんだけど・・・、なんて思いながらテレビに目をやりました。
 そして、日本のメディアのあり方についての問題を感じることになりました。その時に視聴していた、ある民間放送は、候補の発言を直訳しないで過激な表現に訳し替える、或いはその部分だけを抜き出すことで意図的に話を盛っていました。
 わたしには、報道番組をエンターテインメント的なものにするために、話を盛って事実をねじ曲げることすらいとわない、面白ければいい姿勢に見えました。報道が批判的なことに集中して、肯定的なことから目を逸らしていました。それが、一部の視聴者を楽しませていることも事実であり、必ずしもそういう報道を否定するものではありませんが、事実をありのままに伝えないことが、間違った世論を形成していると感じました。

 わたしにできることは、メディアが世論に与える影響力を学ぶことです。これを、メディアの「強力効果」というそうです。また、わたし自身がメディアに流されないこと。そして、現在の報道のあり方について異を唱えることが必要だと感じたできごとでした。

 それぞれのメディアの嗜好を、視聴者が判断した上で、視聴する番組を選び取れるような仕組みが必要だと思います。そのためには、直接的な影響力を持っている、メディアの内部にいるひとが、一視聴者としての意見を持つこと、そうした上でそれを反映させることは効果があると思います。正論を言う限り、主張に影響力はあるものです。

 アメリカ大統領選挙では、ドナルド・トランプについての批判が報道されました。しかし、報道されていた統計に反して、ドナルド・トランプは大統領選挙に当選しました。
 世論の少数派であるとされたドナルド・トランプの支持者は、支持の表明を控えました。意見を表明することによって批判を受けるリスクがあると考えたひとが、リスクを回避しようとした結果なのかもしれません。これを、「沈黙の螺旋」というようです。支持者の心理については、朝日新聞(2016年11月9日付、10面)を読んで気付かされました。そこには、ドナルド・トランプの当選のために、隠れ票に期待しているというような説明がありました(投稿時現在、販売中の紙面なので、引用は控えます)。
 選挙の結果が統計に基づく予想と異なったことは、世論調査が潜在的なドナルド・トランプの支持層の意見を拾い切れなかったからだと思いました。

2016年10月17日月曜日

害虫と雑草

 蝶が何度も、わたしの顔に止まろうとしました。放っておいたら、止まってくれそう。わたしは、丁度、携帯電話を手に持っていたので、シャッターチャンスなんて思っていました。しかし、蝶が突進してくる度に、強まる羽音で、反射的に避けてしまいました。
 わたしが手を差し出すと、止まってくれました。その後、蝶が飛び立って気付いたのですが、蝶のいた付近に、出来物ができていました。樹液でも吸おうとしたのか?シャンプーなどの香りが、花と似ていたのかもしれません。

 風呂にゴキブリがいました。シャワーの水飛沫を、2回ほど当てると、水溜まりの中でひっくり返って、上体を反らせて懸命に呼吸していました。こんなゴキブリは見たことがありませんでした。起き上がれないのかと思って、よく見ると、右後ろ足が貼り付いて、そこを軸にクルクルと左回転していました。
 懸命に生きようとしていたゴキブリを見て、こんな残酷なことはできないと思い、ブラシの先で救けて、外に出しました。

 わたしは、ゴキブリの被害を受けたことはありません。蝶は可愛い、ゴキブリは害虫というのは、先入観に過ぎないと思いました。

 わたしは、植木鉢の中に自生していた植物について、水やりをしたり観察したりして、1か月近く大事に育てていました。それは、植物の早い成長に気付きやすいことや、育てているうちに花が咲き始めていたことに、変化を見るという楽しみを見出せたからです。
 先日、その植物が消えて、用土に引っこ抜かれたような跡がありました。その植物を引っこ抜いたひとは、わたしの植物の植木鉢だと知っていながら手を出していました。わたしは、そんなに簡単に楽しみを奪った行為に対して、苛立ちを覚えました。

 害虫、雑草は、ひとそれぞれの見方によるもので、主観的な概念です。だから、害虫、雑草なんていう括りは存在しません。
 ゴキブリは、誰にとってもゴキブリです。同様に、ある植物は、誰にとってもある植物です。しかし、あるひとにとっての害虫、雑草は、誰にとっても害虫、雑草というわけではありません。

 わたしは、その植物を引っこ抜いたひとに言っておきました。「わたしの育てていた自生した植物も、そのひとが植えて育てている植物も、同じ植物である。雑草は、植物に対するひとそれぞれの見方だから、生来の雑草なんてものはない。」
 言うべきことは、言っておきました。新しく植物が自生したとき、そのひとは引っこ抜かないでいてくれるだろうか。

 既に苛立ちは収まっていたので、強い表現を使わないことに我慢は必要ありませんでした。植木鉢にある、引き残りの植物が成長してくれればいい。

2016年10月1日土曜日

夏バテしたのは

 夏バテしました。

 いいえ、わたしではなくて、植物が。

 先日、ホームセンターで多肉植物を2鉢買ったわたし。さっそく、日当たりのいい場所に並べました。置場所が適切なことに、何の疑いもなく。
購入当初の2鉢、日当りのいいところに置いた
 ところが、2日ほどすると、うち1鉢は一部の枝がフニャフニャになりました。原因は直ぐに分かりました。というより、思い当たることは、これしかない、・・・夏バテ。
その2日後の様子、右側の多肉植物の葉っぱが傷んできた

 この2鉢は、それぞれ違うホームセンターで買ったがゆえに、生育環境が異なっていました。うち1鉢は、空調の効いた店内で、一方は、店先に置かれていました。
 この2鉢を日光に当てると、同じ多肉植物でありながら、室外で管理されていた方は元気で、室内で管理されていた方は夏バテしたのです。ショック。しかし、それは新たな発見でもありました。

 初夏の人間と同じで、植物も急激な気温の変化に夏バテしました。
 わたしもそう。梅雨明けには、暑くて、暑くて、汗が止まりませんでした。しかし、暑さに慣れると、気温が34度でも、さほど苦しくないものです。その上、気温が32度まで下がると、涼しいとすら感じました。
 要は慣れであり、空調に慣れた人間は暑さによる疲労が大きいのと同じく、植物も暑さで疲労を感じたのです。なんだ、人間と同じではないか。同じ人間でも、それぞれ違っているように、同じ多肉植物でも、個体差があります。
 ただし、夏バテしたからといって、多肉植物が、空調の効いた快適な環境に甘んじていたのではありません。むしろ、空調の効いた環境に適応していたのです。それが、人間とは違うところ。

 しかし、暑さに強いはずの多肉植物が、たった2日で夏バテするなんて、思いもよりませんでした。これ自体は、いい話題ではありませんが、意外性に驚きましたし、勉強になりました。

 意外性といえば、食虫植物にも、意外な敵が現れました。

 食虫植物を日光に当てようと外に出すと、ムシトリスミレに、虫食いがあったのです。葉っぱは捕虫器官なのに、それを食べられるなんて。食虫植物vs虫。食虫植物が一方的に強いわけじゃない。
ムシトリスミレ、虫なら何でもいい、・・・というわけではない

 その翌週、雨が降ってきて食虫植物を室内に入れようとしたときのこと。ハエトリソウに目をやると、またしても虫食い!ムシトリスミレに続いて、食虫植物の補虫器官を食われた。
ハエトリソウ、またしても虫食い!

 食虫植物を食べた虫とは、何者?なんて思いつつ、食虫植物は、食虫能力がある以前の問題として、植物なんだと再認識しました。

 再び、多肉植物に話を戻します。

 先日、多肉植物を増殖させるためにポキポキと枝を折っては、並べました。多肉植物の、枝を取って、根っこが出るまで置いておき、増殖させるという方法。愛着がわくと枝を取りたくないと思ってしまうので、その前に実行することが大事。

 増殖過程を観察しています。植物の成長速度は、とても早い。そして、成長段階に応じて姿を変える。
多肉植物(上記画像1、2枚目、左側)の枝、発芽、発根した


 知らないものから学ぶことは多い。 新しい発見に、期待するばかり。

2016年9月18日日曜日

ラッキーカラー

 全身真っ黒。身に付けているものの話。

 2か月半ほど前に、行き付けのショッピングモールに行きました。買い物をして、さあ帰ろうとしたとき、ふと催し物コーナーの衣料品店のセールに立ち寄りました。現在メインで使用している鞄より大きめの鞄が欲しいと思っていたわたし、見るだけならタダだし見てみよう。そういうわけで立ち寄った売り場で、目ぼしい鞄を2つに絞りました。

【候補1】トートバッグ
 紺と赤のツートンカラー。
 内壁に防水素材を使用している。
 大きめ。
 型はしっかりとしている。

【候補2】ショルダーバッグ
 黒。
 防水ではなさそうだけど、少しは耐水できそう。
 大きくはない。
 型は新品とは思えないくらい付いていない、ふにゃふにゃ。

 実はわたし、トートバッグが欲しかったんです。大きめで型もしっかりしていて、なかなかの使用感。ただし、使い慣れない色であり、肩に掛けてみて居心地がよくない。気に入ったんだけど、使いたいかと言われると、そうでもないかなって思ってしまうような感触。しかし、元々とても高価な鞄なのでそれに目が眩んで購入してしまいました。何か心に悶々としたものを持ったまま車に戻ったわたしは、自分がどうしようとしているのか意思を整理しました。

【結論】
 コストと品質を天秤にかけて、その鞄には価値がある。誰かへの贈り物にするなら、自信を持って選べるくらいの品質。しかし、決定的な問題は、「わたしの色じゃない」ということ。ひとに贈る予定もない。

 結局のところ、わたしはそのトートバッグを、黒のショルダーバッグと交換しました。何か心の悶々としたものが取れました。

 わたしにとって、「黒」は特別な色なんです。とにかく身の回りの物には好んで黒を選んできました。
 小学校の入学のときの上履き入れも、筆箱も、ズボンも自分で選んだものは全部黒でした。髪だって染めたことはないです。まあ、茶色が好きだから茶髪にするというわけでもありませんが。
 わたしは、「黒」を美しい色だと思っています。特に、深い黒、"漆黒"の生地を見たら見とれてしまうことだってあります。

 家族は、黒が似合うと言ってくれる一方で、地味だと、他の色を身に付けさせようとしてくれます。わたしは、黒が地味だという感覚がないのですが、今年度は気持ちの変化を求めて、暖色系の衣料品などを選んできました。
 ところが、そのとき鞄を交換して気が付きました。わたしの好みに反する色を敢えて身に付けることは、疲れるということ、奇抜な色は似合わない、寒色系が似合うということ。

 翌日は、今年度封印していた全身真っ黒、無地の黒、下着だってほぼ黒でまとめました。
 何だか、以前の自分の服装に戻したことで、自分の殻を破ったように感じました。意識的に変化させていたことを元に戻して、殻を破ると感じることは、一見、矛盾していると捉えられそうです。しかし、殻を破るとは、意識を変化させること。わたしは、好きな服装をしないよう自分に制約をかけて、不必要に自分の行動を縛ることで、変化を感じていたということです。

 鞄を交換した後、服屋に立ち寄って、久々に黒の下着を購入して行きました。元に戻すことで成長を感じられることもあるんです、清々しい。

2016年9月3日土曜日

初めての寄席

 わたしは、趣味に関連して、どうしても体感してみたい催し物がありました。それは、落語を観ること。
 そして先日、ついに初めての寄席を観てきました。わたしの目当ては、「古典落語」だったのですが、現代の寄席のスタイルは漫才など色々な見せ物が混在する演目の組み方をするようでした。

寄席の会場、落語を観てきました

 わたしは、小学生のときに読書を通して「古典落語」、「ショートショート」にのめり込みました。どちらも"落ち"があり、物語の後の余韻が楽しい。特に落語は、同じ内容をシリーズを変えて2周読むほど熱中しました。滑稽ながら、知的な物語に、小学生ながら感動を覚えました。

 その中で最も印象が強いのが、有名な『じゅげむ』です。ただし、印象が強いといっても、それは、唯一、面白いと感じなかった物語だからです。子供に縁起のいい名前を付けようとして、手当たり次第に縁起のいい言葉を付け足してもの凄く長い名前になるというストーリーなのですが、正直なところ、単調で落ちが序盤から読めてしまうので、書籍で接すると面白くありませんでした。
 これを、いかに軽快に話すのか、この落語の見せ場は落ちではなくて、その過程にあり、以前から観てみたいと考えていました。

 実はわたし、小学生のときに『じゅげむ』を読んで以来、"じゅげむさん"の名前をフルで言えます。物語で、何度も繰り返されるので、"じゅげむさん"の名前をフルで言えるようになっていました。
 些細な自慢なのですが、フルで言ったところで、合っているかどうかなんて大半のひとには分かりません。"円周率"を何桁も言えるひとたちもこんな感覚なのかな。

 それはさておき、これまでは観る機会がなかった落語を、今回、ようやく観ることができました。

上は会場の看板、下には出演者名が書かれていた

 入場ゲートをくぐると、ステージを奥に、左右には座敷席、中央には現代的な椅子が並んでいました。その、和を基調としながらも、完全に和ではない異様な空間に驚きを感じて、同時に期待が膨らみました。

 わたしは右の座敷席の最前部に正座して、寄席を観覧しました。情景として全く風流ではないにしろ、空調で揺れる提灯が雰囲気を作っていました。
 実際の寄席では、落語家が入れ替わると座布団を返したり、小話から物語に入るタイミングで上着を取ったりと、当然のように行われていた"しきたり"が、とても新鮮でした。

 初めてのわたしにも、落語家の実力はある程度分かるものでした。当然、言葉や身振りで状況を伝えるわけですが、分かりやすい落語は、登場人物の語調に、より大袈裟な差を付けていて、理解するのに疲れを感じませんでした。ただ話すだけではなく、上手な話し方というものはあるようです。

 ただし、思考による疲れと、肉体的な疲れは違います。正座に慣れているつもりだったわたしですが、同じような姿勢で観ていると疲れは溜まるもの。最近は椅子に座ることが多くなったせいか、何度か足を釣りそうになりました。

 今回の寄席で残念だったことは、ときの話題として、ある性犯罪の被疑者の話で笑いを取ろうとした例が3回もあったことです。そんなことでは笑えませんでした。
 いくら相手が性犯罪の被疑者とはいえ、ひとの暗い話題を楽しむことは非道徳的です。落語家や漫才師が性犯罪を受けたわけではないと思います。
 ただし、これで笑っていた客もいました。とても、不快でした。

 類例として、わたしは、テレビのワイドショーの音声が聴こえてきて、それを不快に感じた経験があります。そのときは、読むはずだった原稿が表示されないことで言葉に詰まって泣き出した他の放送局のキャスターの話が、笑いのネタに利用されていました。わたしは、堪らず、選局し直してもらいました。
 わたしは、この日の落語の小話が、ひとの苦しみを笑いのネタにするテレビのワイドショーの負の側面を見ているような気がして、とても苦手に感じました。考え方は、ひとそれぞれだと思いますが、たとえ楽しいと感じても、笑いの質を考えると大っぴらに楽しむべきではないことはあります。

 そして、物語の登場人物が罵声を浴びせる場面で、落語家と目が合ったら気分のいいものではありません。
 そういう場面では、目が合った客にとっては場の雰囲気が極端に変わり、気が散ります。落語家の目線の先にいた、反対側の座席の客の表情を見ても、笑顔が消えて話にのめり込めない様子を感じ取れました。
 それを見ていたであろう落語家は、気が付かなかったとは考えられませんでした。客本意でないことは、理性の問題だと思いました。

 再び、入場ゲートをくぐって、非日常的な空間から元の世界に戻りました。寄席のいいところ、問題点がそれぞれ見付かりましたが、全体としては、満足な経験ができたと思っています。気分が晴れやかになったことで、元の世界もどこか違う感じがしました。

結局のところ、この日に『じゅげむ』の公演はありませんでした。客引きの男性によると、演目は客を見て決めているのだそう。どうやら、特定の演目を観ようと思って、観られるものではなく、それを観られるのかどうかは、予め分からないようです。

 この日は、知っていた落語を2つ観ることができました。「平林」、「化け物使い」という演目だったのですが、やはり実際に観ると面白いものでした。そして、『じゅげむ』を観たいという思いが、更に強くなりました。

 初めての落語ということもあって、目に映るものは新鮮で、感動しました。また観てみたいと強く思いました。2回目には、2回目の感動があるはず。期待が膨らんでやみません。

2016年8月3日水曜日

初蛍

 5月の話。少し間が空いて8月になりましたが、それには理由があるんです。

 ——以下、当時の日記より引用。

 今年に入って、1匹目の蛍を見ました。淡い黄緑色の光、ゆっくりと点滅していました。

初蛍(ゲンジボタル)


 その後、用事を済ませてからもう一度見に行きました。そのとき、2時間ほど経っていたのにもかかわらず、殆ど同じところに柔らかい光を見付けられました。

 わたしは、撮影しようとしました。しかし、スマートフォンのカメラでは、蛍の小さな光は鮮明に捉えられませんでした。
 そこで、モバイルライトで蛍の姿を写し出して撮影しました。 光もさることながら、その姿も美しい。赤い部分と、艶のある深い黒。

 撮影を済ませてモバイルライトをオフにすると、蛍の光が弱まっていることに気が付きました。どうやら、周囲が明るいと発光が弱まるようです。
 蛍は昼間には発光を抑えて、周囲が暗くなるのにしたがって発光を強める習性がある様子。何てエコなんだ。
 それが求愛のための光で、周囲が暗くならないと目的を果たせないものだとしても、環境によって自ら発光をコントロール しているなんて凄い。人間の理解の及ばないところで、小さな虫も色々と工夫をしながら暮らしているんだなと実感できました。

 わたしは、何気なく「初蛍」という言葉を使いました。しかし、「初蛍」という季語はあるようです。内心、いい言葉を思い付いたと思っていたのですが、残念です。

 ——さて、現在に話を移します。

 わたしは、2匹目以降の蛍がまた現れるかもしれない、光の点滅について書くのであれば動画も撮影しておこうと考えていました。しかし、野生生物というものは人間の思い通りになるとは限らないもので、待っても、待っても、2匹目は現れませんでした。結局、この間で、わたしに姿を見せてくれたのは、この1匹だけでした。

 蛍の時期が過ぎて、この虫が貴重なものだということが分かりました。思い通りに現れてくれなかったのは、人間が環境に手を加えたから。蛍たちは、思うように現れられなかったんです。これから蛍を見かけることがあったら、もっと大切に扱おうと思いました。

2016年7月21日木曜日

怒らないでね、大雲閣

 植物「大雲閣」を購入しました。

 先週、ホームセンターで見かけて欲しいなと思いつつも我慢して購入しなかった一鉢。売れるな、売れるなと思いながら植物コーナーへ向かい、店の奥に姿が見えたときには、ほっとしました。

大雲閣、迫力のあるフォルムが魅力


 説明書きには、この植物がサボテンではないことが書かれていました。あなたは何者?(インターネットによれば、「トウダイグサ科」、「ユーフォルビア属」に分類されます)
 とても大きくなることは知っていたものの、知れば知るほど謎が増えていきました。最近、植物が知的好奇心を刺激してくれることが多いことに、とても感謝しています。

 大雲閣をレジに持ち込むと、ビニール袋に入れられて、気を付けて持つよう言われました。棘が刺さるとかより、植物へのダメージが気になりました。

 後になって袋から出すと、案の定ビニール袋と自動車の揺れの影響がありました。枝どうしが接触して、内側に開いた穴から白い樹液が出ていました。また、外側も棘が曲がったところが幾つかありました。植物に申し訳ない気持ちで、樹液を指で拭いました。

大雲閣の枝どうしが接触した痕、白い樹液が出ている


 手を洗ってから、早速、植え替えについてインターネットで検索しようとしました。「大雲閣」と入力、検索候補が予測されました。そして、その一つに、「毒」というキーワードが提示されました。
 植え替えのための準備もしていました。しかし、「毒」が気になってしようがないので、「植え替え」というキーワードの検索は後に持ち越しました。

―毒の概要―

1.樹液に毒がある
2.大雲閣を胴切りして吹き出した樹液が目に入って、一時的に視力が低下、数週間かけて回復した事例がある
3.樹液に触れると、患部が痺れることがある

 わたしは、持っていたスマートフォンをその場に置いて洗面所に直行、外出時以外では滅多に使わないハンドソープで、念入りに指を洗いました。特に湿疹は見られない、助かった~。
 樹液は、付着すると速乾性があり、とても強い摩擦抵抗を感じました。その上、近寄ると独特の臭いがあります。

 樹液の影響ではないと思うけれど、目に痺れを感じました。樹液に触って最初に手を洗ったとき、軽く顔も洗ったかもしれない・・・。
 こういうときには、人間、錯覚に陥りやすいもの。恐ろしい想像をしながらも、実際、自動車の運転の影響だと思いました。

 植物が外敵から身を守るために、棘に加えて、毒まで持つのかと感心さえしました。わたしは敵じゃないよ、怒らないでね、大雲閣。さいわいなことに、湿疹は見られませんでした。樹液を拭い取ることで、優しく接する気持ちが植物に通じたんだよ、きっと。

 わたしは、迷信は信じませんが、そう思いたいときだってあります。植え替えをしようと検索したことで毒に気が付きました。早めの毒への対応も、植物への愛情があったからこそ。そう考えると、優しく接する気持ちと毒が効かなかったことは、強ち無関係ではありません。

 そして、昨日、植え替えをしました。

-植え替えの手順-

1.鉢から大雲閣を取り出した
2.根に付いた用土を払い除けた
3.鉢の底に網を敷いた
4.軽石を網で篩にかけ、大きさが一定以上のものを底石として使用した
5.サボテンの用土を敷いた
6.大雲閣を乗せて少しずつ用土を詰めていった

 この日は、二鉢の白雲閣(こちらはサボテン)も、植え替えました。大中小と並んで、トトロみたい。

植え替えしました(左は大雲閣、中央と右は白雲閣)


 大きい方の白雲閣は植え方が浅かったので、植え替え前の地下部分の跡が見えています。植え替えし直したいのですが、鉢に肥料を乗せてあるし、記念撮影までしてしまい、植え替えをやり直すことに躊躇いました。
 優しく接する気持ちがあるなら、早めに植え替えし直しましょう。

追記(2016年7月27日0時8分)
2016年7月23日、大きい方の白雲閣を植え直しました。

2016年7月11日月曜日

投票してきました

 昨日、7月10日は参議院議員選挙の投票日でした。

 今回の選挙で、高知県は徳島県との合区がなされました。全国報道では、中央の視点から「一八歳選挙権」、「野党共闘」にばかり注目が集まりがちですが、対象地域の有権者にとっては「合区」が最重要問題です。高知県出身者として、両県がともに一人区なのに、合区で選出される議員の人数が減らされることに強い理不尽さを感じています。
 参議院議員選挙は3年毎に半数の改選であり、全体では2県で2人の議員は確保されます。しかし、1回1回の選挙でいえば、有権者各々の民意は議員1人分も反映されていません。一票の格差を是正するという理由で、地方の影響力低下が強まる極端な手段が実現してしまったように感じられます。県を跨いだ合区は、価値観や政治的な区分の異なる集団に択一的な政治観念を選ばせるものであり適用してはいけないと思っています。

 わたしの実感としては、選挙区あたりの有権者数が増えたことによる、単純な一票の価値の低下は殆ど意識していません。それよりも、政治単位の異なる地域(他県)と合区されたことによる、"一票の意味の曖昧さ"、"議員の地域代表としての価値の低下"を感じます。一体、誰のために投票しているのか、自分の地域の議員が選挙区内全域の市民の意思を反映できるのかと思ってしまいます。
 これについて、議員が1県の代表ではないので、政治の場で県の代表としての立場をとれるとは思えません。恐らく、両県に共通する価値観は反映しながらも、対立する価値観については明確な立場をとれない場面が出てくるはずです。そのため、多くの国会議員が地域の問題を国政に持ち込む中で、合区の議員は政党内の大勢の意見に依存しやすくなります。このような状況では、有権者は県の代表性の低い議員を選択せざるを得ないことで、国政では都道府県間の影響力の開きが一層大きくなります。

 わたしは日頃からひとの批判をしないよう心掛けていますが、今回の合区に関しては"愚策"だと思います。一票の格差を是正するために、一部地域の意見の集約に支障がでるような区割りをすることは民主主義を蔑ろにしています。
 数値上の格差に是正後の実質的な格差の変化を勘案して、場合によっては例外を設けることも必要なはずです。有権者数を分母にして、議員定数を分子にするような単純な関係式ではなく、県を跨いだ民意を正確に反映できない分、議員の代表価値は低くなるので、1未満の係数がかかるはずです。国家財政の赤字が膨らむとしても参議院議員の全体の定数を増やして、一票の価値の低い地域の定数を増やして、格差を是正するほうが適正かと思います。

 わたしは政治について強い関心がある方ですが、最近の政治報道については、かなり冷ややかな目で見ています。全国的な報道機関は、参議院議員選挙の合区をほとんど扱いません。この問題に限らず、特に、このところの東京都知事選挙に関する報道については、情報過剰です。いくら首都の知事とはいえ、全国報道で連日トップニュースになるような話題ではありません。
 一都道府県知事の、しかも候補者たちが届け出る前から"一候補者"に焦点を当てて大騒ぎしています。ましてや、国政選挙の期間中にです。 最近の報道は、あまりに中央集権が過ぎるように思います。全国報道であることを意識して、主観的な報道にならないよう変化を起こすには一体、どのような方法が必要なのかを考えさせられます。

 地方のテレビは東京で製作された番組が中心になりますが、全国区の放送局から発信される番組は、東京のローカルな情報に留まっていることが多いと感じます。それは報道番組以外についても当てはまることで、例えば、民放、特に地上デジタル放送を中心にして、連日のように東京のイベント、東京の飲食店の紹介がなされます。
 それらを全国の視聴者に勧めているとすれば、遠隔地の視聴者にあまりに失礼であり、理解に苦しみます。地方の視聴者からすると、遠隔地にある放送局の製作スタッフの主観で、連日、全国放送であることを意識していない情報を発信されることが、テレビ番組の視聴率低下の一因であるように思われます。

  田舎では、その地域独自の番組は少ないので、それゆえ、東京の番組への依存度は高まります。全国的な番組が楽しいと思うのかはひとそれぞれ、中央のローカルな番組が楽しいと思うのかもひとそれぞれです。
 しかし、東京の放送局は地域に向けた情報を発信する時間は確保しているのに、全国放送でもローカルな内容を発信しています。 そのため、東京の放送局には地域の視点を持って欲しい、全国放送として通用する番組内容なのかを客観的に見直して欲しいと感じています

 ただし、地域のイベントや飲食店の紹介とは違い、都道府県知事選挙の報道は必要だと思います。ここで問題なのは過度な報道であり、量的に過剰なほか、焦点の当てかた次第で、イベントや飲食店の紹介と何ら変わらないエンターテインメントのような性質に、更に行き過ぎると、特定の人物の失敗を不必要にピックアップして楽しむような軽率な内容になってしまいます。

 参議院議員選挙の話に戻します。

 わたしが投票所で比例代表の投票用紙を受け取りに行くと、立会人の女性が声を掛けてきました。「覚えている?」、そう言われて一瞬顔を見た後、名札に目が行ってしまいました。以前に通っていた中学校のクラスメイトでした。向こうは気が付いてくれたのに、自分は名札を見てしまった。しかも、その後、正直に「名札で分かった」なんて言ってしまった。その日、何度も、自分の失言を思い返して、気の利かないやつと思いました。
 わたしは、いずれ選挙の立会人をやってみたいと思っていたので、彼女のチャレンジが格好よく見えました。しかし、考えるより先に名札を見てしまった自分のとっさの判断が失礼で、失礼で、申し訳なく思えました。名札がなくても分かったと思うけれど、見てしまったから、そう言い切る確信は持てません。化粧がなかったら一瞬で分かったと思うよ、心の中で言い訳混じりに語りかけた。 

2016年7月1日金曜日

ハイブリッド植物

 ひと月ほど前、ショッピングモールで食虫植物を購入しました。

 ウツボカズラを目にしたわたしは、香りを嗅ぎ付けた昆虫同様に引き寄せられました。そして、その周囲に置かれていたサラセニアとモウセンゴケが目に入り、更に、花屋の奥に進むとハエトリソウも見付けました。
 たくさんある中から、お気に入りの一鉢を見つける。これがなかなか楽しく、どれにしようかと選んでいる間に、あっという間に時間が過ぎました。結局、2週にわたって全部で5鉢の食虫植物を購入しました。

-購入した食虫植物の紹介(いずれも2016年6月30日に撮影)-

1.ウツボカズラは、2種類置いてあり、選んだ鉢は「ジェントル」という品種だと思います。実は翌週、もう1種類の「ダイエリアナ」も購入しました。

ウツボカズラ(ジェントル)、手前下が成長中の補虫袋
ウツボカズラ(ダイエリアナ)、右奥が成長中の補虫袋

2.サラセニアも、2種類置いてあり、補虫袋が太めの品種と、細めでたくさん生えている品種が置かれていました。実は、この選択に今回の購入時間の大半を要しました。

サラセニア、緑色の補虫袋は新しいもの

3.モウセンゴケも2種類。気に入った品種から、特にかたちの整っているものを選びました。

モウセンゴケ、先端の粘液で虫を絡め取る

4.ハエトリソウ。こちらは1種類から、葉っぱがバランスよく円形に並んだものを選びました。

ハエトリソウ、左上の新芽が、右手前、右奥のように成長する

 斯くして、わたしと食虫植物との生活が始まりました。百聞は一見に如かず、食虫植物に限ったことではないのですが、詳しく知らないものを目にすることは勉強になります。経験がない分伸び代が大きく、インターネットの使用も相まって、食虫植物についての知識が増えていきました。知ることが楽しいから覚えられるのであり、何かを得るとかいう意識はなく、理屈抜きに楽しい。趣味としてはそれでいいと思います。

 本題に戻します。食虫"植物"である以上は光合成で成長できます。そのため、昆虫などから直接タンパク質を吸収できるからといって、必ずしもそれが生育に必要なわけではありません。亀が肺呼吸、皮膚呼吸を使い分けるように、食虫植物も養分の補給が2通りの方法でできるということです。名付けて、「ハイブリッド植物」。

 先日、移動中のモウセンゴケに虫がとまりました。サラセニアとウツボカズラたちを素通りして、モウセンゴケに付いてきました。そして、並べてあるハエトリソウには目もくれずモウセンゴケにとまりました。初めて見た瞬間であり感動はしましたが、感動している自分の残酷な思考に矛盾を覚えました。

-食虫植物たちの補虫状況について-

1.モウセンゴケは今回見た通り、小型の虫の補虫能力がずば抜けています。食虫植物は一ヶ所にまとめて栽培していますが、競合する他の食虫植物たちを寄せ付けません。モウセンゴケ一強の状態です。

2.サラセニアはモウセンゴケに次ぐ実力を見せています。サラセニアの補虫袋には虫が数匹入っています。ただし、モウセンゴケの補虫数とは大きな開きがあります。

3.最下位はハエトリソウです。現在のところ、補虫したところを一度も見せてもらっていません。がんばれ、ハエトリソウ。まあ、虫がなくても成長できるのですが。

4.ウツボカズラについては、補虫袋の蓋が口の上にあり、補虫袋の奥を見られていません。その実力は未知数ながら、成長後の補虫が楽しみです。と思ってしまうのが、やはり残酷に思います。現在の補虫袋は、虫を誘き寄せる蓋や口が小さいので、競合する食虫植物に対して外見上不利に思われます。補虫袋を灯りに透かしてみた限りは入っていません。

 しかし、突如現れた未知の外来植物に誘き寄せられて食べられる虫を考えると、やはり残酷に思います。彼らには、耐性も経験もありません。

 補虫もさることながら、やはり、観葉植物を見ていて楽しいのは、高温になる時期の著しい成長速度です。特に、その姿が独特な食虫植物の日々の変化は、何といっても魅力的です。

 サラセニアの新芽の補虫袋が大きな口を開けました。そして、水も溜まって、虫を食べられる状態になります。その補虫袋内の液体はウツボカズラの強酸と違って、バクテリアで分解するそうです。新芽の色は淡い緑色、これがだんだん赤色になってくるとすると、これからの変化が楽しめます。 
 ウツボカズラ(ジェントル)は新芽の補虫袋が大きくなってきて、まだ2センチメートルもないとはいえ、順調に成長していることは感じられます。
 ハエトリソウの新芽は、葉が大きくなって起き上がります。そして、先端の補虫器は閉じた状態から徐々にギザギザができて、それがだんだん細長くなります。更に、補虫袋が開くと内側は緑色が強く、特有の濃い赤色は、次第に色付いてきます。
 モウセンゴケは、相変わらず虫をたくさん捕まえています。購入した当初は、購入時に捕獲していた虫がいたため判別できませんでしたが、度々見ていると明らかに増えていることが分かります。この中では虫からの人気が一番かもしれません。虫の数が目に見えて分かるから他より多いと感じるだけかもしれませんが、たくさん捕まえていることは事実です。成長については大きな変化は見られませんが、新芽の開きを感じられますし、全体的に日差しを受けやすい方向に傾いたようです。
 ウツボカズラ(ダイエリアナ)は、大きくなる品種なので成長が楽しみです。新芽の補虫袋も大きくなり、成長後に見られる補虫袋側面の斑模様も、補虫袋の口付近に表れてきました。

 先に書いた通り、気温が上がると成長速度も上がります。サラセニアの補虫袋が少し開いた、ウツボカズラの補虫袋が大きくなってきた、ハエトリソウの新芽の捕虫器にギザギザができたなど、日々の変化を感じられます。その度に、嬉しくって思わず撮影会になります。

 独特な形状と、妖美な姿が興味をそそります。彼らに誘き寄せられるのは虫だけではありません。 

2016年6月10日金曜日

原子爆弾投下の是非

 今回は、少し哲学的な話になりました。オバマ・アメリカ大統領の広島平和公園訪問の翌日、報道番組の特集を観ていたときの話です。

 ある被爆者の男性が、「オバマ大統領には謝罪をして欲しかった」と述べていました。オバマ大統領の訪問後の、NHKの報道では、被爆者のうち「謝罪をして欲しい」と感じているのは14パーセントいう統計が示されていました。そうだとすれば、この男性の意見は、「謝罪をしてもしなくてもどちらでもいい」、「謝罪をして欲しくない」の総数と比較して、少数派ということになります。ただし、ひとりひとりの価値観があり、被爆当事者である以上はそれに基づく理由があるはずであり、その意見を決して疎かにしてはいけないと思います。
 そのときわたしは、周囲のひとたちが放った言葉に不快感を覚えました。彼らは、「それは間違っている」と切り出して、「原子爆弾投下によって多くの人命が救われた」、「謝罪を求めることは間違っている」と話し始めました。
 そのときの話が、意見の違いを否定して、多様性を認めないものに思えました。わたしは、彼らの意見がどうであれ、他者の意見への接し方に対して、不快に感じました。

 わたしは、このときに感じた不快感の正体を考えることにしました。わたしの意見はどうなのか、アメリカ大統領は謝罪をするべきなのか。結論から言えばわたしは、アメリカ大統領は謝罪をするべきだと思います。そう考えるに至った道筋を説明します。

-「原子爆弾の投下によって多くの人命が救われた」という意見への不快感-

1.被爆当事者の意見を軽視している。
2.原子爆弾投下による犠牲を正当化している。
3.原子爆弾投下によって犠牲者が減少したという前提に根拠がない。
4.原子爆弾投下による犠牲者と、戦争の長期化による犠牲者は同一ではないので、ひとりひとりの置かれている状況が異なるにも関わらず、人数だけでその正当性を判断している。

 被爆当事者の意見を軽視してはいけないと思うことと同様に、原子爆弾投下を正当化する意見も軽視してはいけないと思います。そのため、「原子爆弾投下によって犠牲者が減少した」ということを前提として考えてみました。簡単化すると、「A.少人数のひとを殺す」、「B.多人数のひとを殺す」という選択肢から、Aを選択すると置き換えられます。これによって犠牲者が出たものの、その人数はより少なく抑えられました。しかし、その行為は誉められるべき性格を持っているでしょうか。少なくとも、Aの犠牲者に対しては謝罪をするべきではないでしょうか。そして、犠牲者の人数を抑えられたとしても、発生した犠牲については正当化できないと思います。
 オバマ大統領は戦後生まれであり、彼に直接の責任はないという意見もあります。しかし、国家元首である以上、部下の責任を上司が謝罪するのと同様に、直接の責任がなくても謝罪をするべき状況というのはあると思います。
 犠牲者の人数と謝罪の必要性は、別次元の問題であり、原子爆弾投下によって犠牲者がより抑えられたとしても、それにより謝罪が必要がないということでは決してありません。犠牲者の総数を減少させたかもしれないという称賛と、犠牲者を作り出したという批判は、論点が類似しているようで本質的に異なり、犠牲者の構成(軍隊と市民の比率)も異なるため、これらを比較して絶対的な答えが得られるものではありません。

 意見の違いを間違いと見るのなら、それは偏見だと思います。自分と違う意見に耳を傾けることで、反証を否定して説得力を増したり、或いは新たな価値観を見出だすことができるかもしれません。相反する立場のひとたちが意見を交えて、発展的な関係になれたらいいと思います。

2016年5月24日火曜日

迷惑タクシー

 今月、ショッピングモールに買い物に行ったときの話。

 車での移動中に、3台のタクシーと出くわした。何というか、あんまり関わり合いたくないようなタクシーさんたちだった。

-迷惑タクシー3台-

1.うがいタクシー
 その1台目と出くわしたのは、ショッピングモールへの移動中。信号待ちで停止していたら、突如、後ろのタクシーの運転席が開いた。そして、扉が閉まった。何をしたんだ?タバコの吸い殻でも捨てたのか?と思いつつ、タクシーの運転席横の道路に目をやると、湿っているのか道路の色が濃くなっていた。液体!?飲み物でも捨てた?
 何だ、何だの連続で観察は続いて、ふと、タクシーの運転席に目をやった。すると、タクシーの運転手の口がモゴモゴしている。口内を濯いでいるような感じに見えた。まさか!?
 観察はそこまでだが、分析は続いた。——うがいだとすると、吐き出した後に口をモゴモゴしているのは不自然。そして、タクシーのドアが開いたのは停止した直後であり、その間にうがいの一連の動作を完了したとは思えない。考えられるのは、タクシーの進行中に、口内をよく濯いで、停止中に吐き出すことを繰り返しながら走行していたのかもしれない。推理小説的にいえば、謎が謎をよぶ状況(推理小説は読みませんが)。気になるものの、気にしたくはない状況でした。

2.優先タクシー
 2台目は、ショッピングモールに到着して出くわした。そこで、優先スペースに駐車をしているタクシーを発見。出入り口付近に停車して乗客を待つという戦略とすれば、理にかなった方法であるが道徳的には問題がありそう。
 ただし、それは誤解で、一顧客として来店したタクシーの運転手が障がいを持っていたのかもしれないので、否定はしません。これだけを見れば、あんまり気分のいいものではありませんが。

3.暴走タクシー
 3台目と出くわしたのは、ショッピングモールからの戻り道。このタクシーが3台の中で最も迷惑、というより実害が出かねない。
 前を走行していたタクシーが、1台の車を抜かした。その直後、タクシーが数十メートル先を左折。抜かした意味はどれほどあったのだろうか?それがタクシーであろうとなかろうと、後ろの車にブレーキを踏ませるような危険運転には、思わずため息が漏れる。

 タクシーに乗客がいないとき、運転手はどんなことをしているのか。 低モラルが過ぎる!と思った。全ての運転手がそうだとは思わないが、このようなタクシーたちとはあまり関わり合いたくない。

2016年5月12日木曜日

タマリンド

 先週、ショッピングモールで果物「スウィートタマリンド」を購入しました。タマリンドの中でも、スウィートタマリンドは生食用なんだとか。
何事も経験、見識を広げるという名目でときどきトロピカルフルーツを購入しています。マンゴー、ドラゴンフルーツ、ザクロ、アボカド、ココナッツ、サラ、タマリンドなどを手にしてきました。そして、その度に家族と食べます。——不満を言われながら。

タマリンド

タマリンド内部、殻は手で割れた

-購入したトロピカルフルーツについての個人的な見解-

・マンゴー
 おいしいという先入観のおかげで食べるのにほとんど抵抗がない。甘いが酸味もきいている。

・ドラゴンフルーツ
 果肉は、白いキウイという印象。毒々しい見た目から、食べるのに抵抗がある。熟れていると甘味を感じるが、家族は熟れる前に食べて、妹は「草の味」と言っていた。「草を食べたことがあるのか」と突っ込みたくなったが、聞き手が実際に味を想像できてしまうことは不思議である。

・ザクロ
 「どこを食べるんだ」というのが最初の感想である。敢えて計画性のない食べ方をすることも楽しみの一つ。

・アボカド
 栄養価に優れているらしい。個人的にはこの中で最も苦手である。

・ココナッツ
 中身のジュースは、ほとんど風味のないさらっとした液体である。どこかで目にしたイメージ通りの、殻を真っ二つにする方法で飲みたかったが、頑丈な殻に覆われているので、小穴を開けて飲むことになった。
 母がココナッツに包丁を突き刺した瞬間、「プシュー」と内圧でジュースが飛び出した。わたしは覗き込んでいてジュースがもろに目に入ったが、ほとんど沁みないことにほっとした。しかし、一瞬見えた無色に近い液体には沁みるほどの濃い味が付いていないことの裏返しでもある。ただし、栄養価に優れているらしい。一体、無色、無味な液体のどこにそんなものが含まれているのだろう。
 わたしは一体、何を食べようとしているんだと思って、インターネットで検索して、ココナッツオイル、ココナッツミルク、ココナッツジュース、それぞれの違いを知った。ココナッツオイルはココナッツミルクの成分を抽出したもの、ココナッツミルクはココナッツジュースが熟れて変質、内壁に付着したもの、ココナッツジュースは熟れていないココナッツの中身の液体である。勉強になりました。

・サラ
 パックに貼られたシールの売り文句によると、ビワのような果肉の果物らしい。強烈な甘い香りがするので、すぐに食べない場合は臭い移りに注意すべきである。
 先陣を切って母が食べた。何だかんだ言っても母が最も果敢に、得体の知れない果物を食べている。わたしはまだ食べていないので、経験してから後日、感想を追記するつもり。

・タマリンド
 本題の果物である。見た目は大きな豆である。日本人の感覚では、豆なのに果物という分類が混乱につながり、気にせずにはいられない。
 中身はそれぞれの豆が連結していて大きな種がある。そもそも、豆というものは、殻が乾燥して、果肉が連結して、種ができるものなんだと実感した。母は芋の味と表現している。確かに、見た目も味も干し芋のようである。色々と楽しみ甲斐のある果物である。

 実を言うと、このタマリンド、食べた後の先週に種蒔きしました。かわいい新芽が出ることを想像しながら。大きくなってね。
 種ってどれくらいの深さに蒔くの?そう思って検索した。インターネット様様である。

検索結果
 ——タマリンド、マメ科、やっぱりね。
 ——高木、えっ・・・。
 ——20メートル以上、・・・ええっ。

 「豆ってつるだろう草だろう」なんて思っていたわたしは、童話『ジャックと豆の木』の「木」の意味が分かった。植え替え必須、鉢なので。 ともあれ、深さは、2センチメートルくらいに決定した。

タマリンドの種


-種蒔きの手順-

 1.砂利を敷いた。
 2.堆肥を敷いた。
 3.タマリンドの種子から果肉を洗い取った。
 4.タマリンドの種子を鉢の中央、堆肥の上に乗せた。
 5.タマリンドの種子に堆肥を被せた。
 6.タマリンドに水やりをした。

 元来、発芽はしやすいので水に浸けたり切り込みを入れたりはしない。堆肥が湿っていれば、水に浸かっているようなもの。

 大きくなってね、適度に。

2016年4月15日金曜日

いたどりの採集

 昨日の日記です。

 山間の竹林でいたどり(山菜)を発見して、採集をすることにしました。持っている荷物を置いて藪に入り、足場を確かめながら進みました。
 すると、少し手をのばせば届くところに、いたどりがポツリポツリと立っているのが見えました。道なき道を掻き分けて進みながら収穫をします。

いたどり(中央)、場所は麓

採集したいたどり
 上記の画像(中央)がいたどり。どうやって食べるの?そもそも食べられるの?なんて思われるかもしれません。皮を剥いたら、竹のように節のある構造になっていて、その後に酸味を抜く手順が必要なようですが、強い風味はないので食べやすいです。

 どれくらいの量が集まるかな?一度戻った方がいいのかな?なんて思いつつ、どんどん奥に進みました。
 藪を抜けると、・・・道路に出ました。こんなところを通らなくっても来られたのに!


通り抜けてきた藪
道路に出た
 それはともあれ、引き返して、脇道に逸れました正確には道ではないのだけど、脇藪?そして、見つけた、見つけたを繰り返すうちに茂みの奥へ進みました。

 斜面を下り、枯れ草や朽ちた竹で足場が見えませんでした。そして、足場が崩れるので、足場をより確かめるように歩きました。
 採集するときには、重心をあまり動かさないように意識して、手をのばして、届かせるために必要最小の動きで身を乗り出しました。これ以上は進めないところでは、葉っぱをつかんで手繰り寄せて採集しました。


 行き止まりなので戻ろうと向きを変えると、掻き分けた草がそのかたちを留めていて、既に道なき道ではないのが分かりました。行きはよいよい帰りは怖い(童歌の『通らりゃんせ』?)の逆バージョンで、行きは道なんてないのに帰りはできていることに、気持ちの上でも足取りを軽く感じました。


 斯くして、片手に握っていたいたどりの束は、膨らみ、膨らみ、膨らみ、抱えるほどの束になりました。山菜と言えど、これだけの量になると、ずっしり重みを感じました。
 収穫して引き返し始めていた藪の中で、視界が開けたおかげか、いたどりに気が付きます。そして、戻り道の取り残しは欲しくなるものです。太くなった束を抱えながら、藪を抜けて元の道に戻りました。

2016年4月11日月曜日

することはしないこと

 何かをすることは何かをしないこと。最近、そう気が付きました。こだわりなんていうのはその典型で、左足から靴を履くひとは右足から靴を履かないし、右足から階段を上るひとは左足から階段を上りません。誰しも何らかのこだわりはあると思います。
 靴の履き方や、階段の上り方は、些細な問題であり、右足からであろうと左足からであろうと時間のロスはないと思うかもしれません。ところが、順序を間違えて気になるなら、何かしらのロスが出てきます。もし反対の足からやり直したくなったら重症です。分かりやすいかたちで時間のロスが出てきます。
 癖ならともかく意識しているならそれはこだわり。先の例を言い換えれば、右足から靴を履かない、左足から階段を上らないこだわりです。

 何かをしないルールがなぜあるのか?何かしらの、本人にとって有益な事実があるからなのでしょう。それをしないと違和感があり気持ちのもやもやが発生してしまうとか、或いはいつもの行動をしているという安心感を持てる、のような理由があるはずです。

 わたしは財布の中の紙幣が種類ごとに分けられていなかったり、上下裏表が入り乱れていると、だらしがないと感じます。あるとき、自分でもこだわっているつもりのないところに、ルールがあることに気が付きました。それは紙幣の順番が、暗黙のルールとして存在すること。
 しかし、わたしは敢えてこだわりに反する事をする、そうすることで些細な未知の経験ができることに気が付きました。そこで、紙幣の順番を反対に変えてみました。周りのひとから見ると何でもないようなことでも、本人にとっては斬新な変化です。大げさな表現かもしれませんが、自分の中の常識を覆したという、新鮮な気持ちになります。

 ただし、何かしらのこだわりは必要だと思うのも事実です。わたしはトイレの紙を三角に折るようにしています。習慣になっているので、それをする理由なんていうものは分かりません。しかし、何かいいことをしているという満足感はあります。そして同じ個室に再度入るとき、自分が三角に折ったところを誰かが使って、三角に折り直していると自分の行動が自分に返ってきたようで嬉しいものです。

 ひとが折ったトイレの紙を使って折らないで出てくることは、合理的な行動だと思います。するのが義務でもなければ、しないと道徳に反するわけでもない、気持ちよくトイレを使えるのであり、利他的な行動のために時間を割くことは任意です。また、それを使って使いっ放しにすることに罪悪感のようなものを感じるひとは折り直して出てくればいいのであり、そうすることで気持ちよく出てこられるのなら、それもまた合理的な行動だと思います。

 話を戻すと、することはしないこと。何かをしないためのこだわりなんて一見、自分を制限するだけで、不要なものに思います。だから、自分で納得できるものは変える価値はあると思います。ただし、その裏返しは、しないことはすること。しかし、価値のあるものは変えない、そのことも大事だと思います。

2016年3月25日金曜日

福寿草に肖る


 本月、七日。
 祖父と福寿草の群生地に行ったときの話。


 このようなパワースポット的な雰囲気を感じる場所では、縁起物に肖りたいと思ってしまうものです。その場所がパワースポットであるという根拠や逸話はないのですが、ありがたい感じがしました。わたしは、「福寿草」は「ふく、ことぶき、くさ」であるからそう感じるのか、そもそもそういう名前がついているのは何らかの理由があるはずだとか、とりとめのない考えを巡らせましたそれがこんなに咲いているなんて、どれだけ縁起のいいことやら。



 ただし、縁起物を見たところで、わたし自身、事実として何も変わってはいないとも思ってしまう。肖りたいと思うだけでは他力本願であり、ここで絶対的に必要なのは幸福になるための行動だと、自分に言い聞かせる。
 何か気分もリフレッシュできたし、日々のモチベーションを維持する効果はありました。わたしは、 「パワー?」を活かせそうです。

 スマートフォンのカメラで撮影しまくっていたわたし。重電残量が規定値を下回りカメラがダウン。画面に表示されたのは「16:00」の文字。閉園時間も一六時。最後に見つけたのは一輪のこちらに向いた大輪でした。