2016年4月11日月曜日

することはしないこと

 何かをすることは何かをしないこと。最近、そう気が付きました。こだわりなんていうのはその典型で、左足から靴を履くひとは右足から靴を履かないし、右足から階段を上るひとは左足から階段を上りません。誰しも何らかのこだわりはあると思います。
 靴の履き方や、階段の上り方は、些細な問題であり、右足からであろうと左足からであろうと時間のロスはないと思うかもしれません。ところが、順序を間違えて気になるなら、何かしらのロスが出てきます。もし反対の足からやり直したくなったら重症です。分かりやすいかたちで時間のロスが出てきます。
 癖ならともかく意識しているならそれはこだわり。先の例を言い換えれば、右足から靴を履かない、左足から階段を上らないこだわりです。

 何かをしないルールがなぜあるのか?何かしらの、本人にとって有益な事実があるからなのでしょう。それをしないと違和感があり気持ちのもやもやが発生してしまうとか、或いはいつもの行動をしているという安心感を持てる、のような理由があるはずです。

 わたしは財布の中の紙幣が種類ごとに分けられていなかったり、上下裏表が入り乱れていると、だらしがないと感じます。あるとき、自分でもこだわっているつもりのないところに、ルールがあることに気が付きました。それは紙幣の順番が、暗黙のルールとして存在すること。
 しかし、わたしは敢えてこだわりに反する事をする、そうすることで些細な未知の経験ができることに気が付きました。そこで、紙幣の順番を反対に変えてみました。周りのひとから見ると何でもないようなことでも、本人にとっては斬新な変化です。大げさな表現かもしれませんが、自分の中の常識を覆したという、新鮮な気持ちになります。

 ただし、何かしらのこだわりは必要だと思うのも事実です。わたしはトイレの紙を三角に折るようにしています。習慣になっているので、それをする理由なんていうものは分かりません。しかし、何かいいことをしているという満足感はあります。そして同じ個室に再度入るとき、自分が三角に折ったところを誰かが使って、三角に折り直していると自分の行動が自分に返ってきたようで嬉しいものです。

 ひとが折ったトイレの紙を使って折らないで出てくることは、合理的な行動だと思います。するのが義務でもなければ、しないと道徳に反するわけでもない、気持ちよくトイレを使えるのであり、利他的な行動のために時間を割くことは任意です。また、それを使って使いっ放しにすることに罪悪感のようなものを感じるひとは折り直して出てくればいいのであり、そうすることで気持ちよく出てこられるのなら、それもまた合理的な行動だと思います。

 話を戻すと、することはしないこと。何かをしないためのこだわりなんて一見、自分を制限するだけで、不要なものに思います。だから、自分で納得できるものは変える価値はあると思います。ただし、その裏返しは、しないことはすること。しかし、価値のあるものは変えない、そのことも大事だと思います。

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