2017年1月24日火曜日

新聞各社の論調

 新聞各社のアメリカ大統領に対する論調について。

 一言で表すと、あまりに悲観的です。
 アメリカ大統領寄りの世論を殆ど報道しないで、反対意見ばかりを並べています。
 わたしは、トランプ大統領の政策が必ずしも正しいとは思いません。一方で、メディアが価値観を共有できる識者ばかりをインタビューの対象にして記事を書いていることには問題があると思います。
 単純な意見の偏りという問題ではなく、公共性の強い報道機関が少数意見を蔑ろにする傾向が見えます。ある意見に偏れば、全体として排他的なものになります。しかも、それらは報道という形で大っぴらに行われています。

 もちろん、トランプ大統領に対して否定的な論調でありながらも、肯定的な世論に配慮して、それらを軽視することについての懸念をつけ加えている記事もあります。例えば、「ポピュリズム(大衆迎合主義)や反知性主義の勝利だと片付けるのは、同氏(★トランプ大統領)に懸命にすがった人々を軽く見ることになる」(毎日新聞 二〇一七年一月二二日付五面、★は筆者による補足)。
 しかし、このような一言が添えられている例は極めて少なく、多くの場合は客観的事実に否定的な意見を織り混ぜた一面的なものになっています。
 わたしは、こうした一言をただ添えてさえいれば、否定的な意見を書くことのネガティブな側面が消えるというわけではないと思います。一方で、少数者を否定するようなことを書く以上は、こうした言葉を添えることが最低限求められるモラルだとも思います。

 メディアは、「こういう状況だからよくない」という論調です。
 わたしは、メディアは本来、「こういう状況だ」という客観的事実を伝えて、それに対する意見の形成は情報を受け取った各々に任せるべきだと思います。批判の矛先にあるのはトランプ大統領であり、人間を相手にしている以上は否定的な表現を多用するべきではありません。そうでなければ、メディアが否定的な世論と同化、或いは世論を操作しているような状況になりかねません。これを回避するためには、あくまで中立的であって欲しいです。

 こうしたことから、トランプ大統領のいう「メディアが意図的にトランプ大統領に不利な情報を流している」という意見には一理あります。メディアの報道には、意図的であるにしろ、ないにしろ、客観的事実の中に「賛否」の意見に伴う感情が混ざっていることがあります。
 新聞に否定的な記事を書いたとしても、少数派に配慮をした上で「社説」を書いていれば問題はないと思います。問題があるのは、それ以外の一般記事にライターの否定的な感情が混在したり、或いは、インタビューした複数の識者のいずれにも少数派を代表する意見が含まれないことです。

 重ねていいますが、メディアは中立的であるべきだと思います。言うまでもなく、新聞やテレビの報道はライターの意見を述べる場ではないのであり、全利用者が情報を公平に受けとることが大事なことです。SNSなどで信憑性の低い情報も混在して飛び交う中で、既存のメディアの報道にさえも偏見が含まれるのであれば、利用者は何を信じればいいのでしょうか。

 わたしは、トランプ大統領がとる、否定されたら否定で返すようなやり方は道徳的に問題があると思います。トランプ大統領のツイートが報道されると、その軽率さに、インターネット上で大っぴらに書くような情報ではないと思うこともあります。
 しかし、これはわたしの個人的な意見です。「道徳的に問題がある」、「軽率」というのは、主観であり、客観的事実ではありません。
 こうした主観的な要素について、メディアが意見を述べることには慎重になるべきだと思います。メディアが一般報道で主観を述べると、「浅い」、「軽率」のようなイメージを持ってしまいます。ライターの方には申し訳ないのですが、例え「社説」だとしても、トランプ大統領のツイートについて「大統領にふさわしい手法や態度ではない」(読売新聞 二〇一七年一月二二日付 三面)のような否定は抽象的かつ対案がないことから「軽率」だと思います。

 メディアに対して否定的になり、特に感情に任せたようなツイートをしたトランプ大統領には問題もあります。しかし、対案を示すこともなく単純に否定するだけのメディアもまた、ライターの意見、感情に任せた報道になってはいないでしょうか。例え「社説」といえど、公共性の強い報道機関の情報においてライターの感情が入り込んでいい余地はないと思います。

 客観的事実による「情報の正確性」、あらゆる意見に耳を傾ける「中立性」があって初めて、公共性を意識した報道になるはずです。最近のアメリカ大統領に関する報道を利用していると、メディアの意識、特に中立性が揺らいでいるな、と思います。

2017年1月9日月曜日

2017年のわたし

 謹賀新年。ようこそ、2017年。

 新しい年は、暦の区切りです。そして、心の区切りでもあります。
 新年になると、わたしは自分の行動、持ち物に変化を取り入れるのですが、今年も、こだわりを減らしたり、文具などを買い換えたりして変化を取り入れました。

 わたしの新年の目標は、年始だけではなく、通年で、変化を意識することです。具体的な目標ではなく、行動目標なのですが、結果的には具体的な変化をもたらすものです。
 未来の自分の行動は、未来の自分が決めることであり、現在の方向性さえ明確であれば、具体的な目標は必ずしも必要ではないと思います。現在の自分がするべきことは、現在できる努力をすることです。
 未来については不確定要素が多く、ある程度、楽観的になってもいいとは思いますが、それは現在の努力が前提としてあるからです。努力をすることで、未来の自分の決定を信用することができます。

 わたしは、変化を成長だと捉えています。
 自分の行動を変化させることは、自分の過去と現在を区別することです。そうすることで、未来志向になります。こうした行動の変化を、1年間にある小さな区切りごとに取り入れると、新年のように新鮮な気持ちでのスタートを何度も行えます。それを意識的に行うことが成長になると思っています。

 自分の努力を伴う目標を達成するには、目標を公言することで後に引けない状況を作ることが有効です。有言実行、ブログはそのための手段としても利用できそうです。

 新年になり、わたしが初めて挑戦したことの一つが、楽曲のダウンロードです。
 わたしは、音楽CDの購入、レンタルを含めて、楽曲を購入したことがありませんでした。音楽を聴く習慣はありませんし、お気に入りの楽曲は決まっているので、わざわざ流行歌をチェックすることもありませんでした。
 しかし先日、新年に変化を求めていることに加えて、実質的に無料で楽曲をダウンロードできる機会があり、それに挑戦しやすい状況になりました。わたしは、購入することを敬遠していましたが、この機会にダウンロードをしました。

 初めての挑戦といえば、現在、スマートフォンからブログを更新しようとしていることもそうです。こちらは、現在の更新する手段がスマートフォンしかないからなのですが・・・。

 変化そのものは小さくても、新しい経験は、現在の気持ち、未来の行動を形作るものであり、確実に未来の自分を変えます。そうやって、色々と変えていくことの積み重ねが、これまでの自分を変えて、新しい自分を作ることになります。

 今年は、年始に限らず、知らないものに挑戦できる機会を活用していきたいです。

おしゃれ観

 以前、アナログテレビの頃、旅行番組に、ある女優さんが出演していました。「髪を染めたことがない」という紹介をされて、眉毛も自然で、耳にピアスの穴も開けていませんでした。そのような条件に当てはまるひとはいくらでもいるのですが、女優さんというのは着飾っているイメージがあり、新鮮に感じられました。
 「~をしていない」「~がない」のような消去法的な理由からなのですが、素敵だと思いました。ただしドラマを視るわけではなく、ファンでもないのですが。

 もしひとから好感を持たれたいなら、飾る必要はないと思います。マイナス要素を減らしていくうちにそのひとの本質が見えてきます。他人に流されないで我が道を行く強さや、内面の美しさがにじみ出るように。

 わたしは身だしなみ程度のおしゃれは必要だと思いますが、度を越えるとチャラい域に入って、ひとからの評価を下げると思います。ただし、それは価値観の違いであり、それはそれでありだとも思っています。我が道を行く他人を否定するつもりはありません。

 確かなことは、過度なおしゃれはそのひとの内面を覆い隠すことです。ショッピングモールで買い物をしていると厚化粧な店員さんに話しかけられました。表情が読めない、顔色も分からない。声で判断する、笑っているのかもしれない。
 この店員さんはチャラい、という先入観が先行して、それ以降の印象の形成を阻んでいました。他人を外見で判断してはいけない、とは思いますが短時間の店員さんとのやり取りでは外見のチャラさがものをいいました。
 重ねていいますがわたしは他人の価値観はひとに迷惑をかけない限り認めていきたいし、自分とは違うものを理解できないからといって否定をしたくはありません。そう思うと、この店員さんにとっては、外見によって損している分以上に何かしらの利益があるんだと思えました。

(今回の文章は、以前に書いておきながら未投稿だったものであり現在のできごとではありません。一年以上もリストの底の方に眠っていた話題で、これ以上置くと本当にお蔵入りになりそうなので投稿しておきます。)