新聞各社のアメリカ大統領に対する論調について。
一言で表すと、あまりに悲観的です。
アメリカ大統領寄りの世論を殆ど報道しないで、反対意見ばかりを並べています。
わたしは、トランプ大統領の政策が必ずしも正しいとは思いません。一方で、メディアが価値観を共有できる識者ばかりをインタビューの対象にして記事を書いていることには問題があると思います。
単純な意見の偏りという問題ではなく、公共性の強い報道機関が少数意見を蔑ろにする傾向が見えます。ある意見に偏れば、全体として排他的なものになります。しかも、それらは報道という形で大っぴらに行われています。
もちろん、トランプ大統領に対して否定的な論調でありながらも、肯定的な世論に配慮して、それらを軽視することについての懸念をつけ加えている記事もあります。例えば、「ポピュリズム(大衆迎合主義)や反知性主義の勝利だと片付けるのは、同氏(★トランプ大統領)に懸命にすがった人々を軽く見ることになる」(毎日新聞 二〇一七年一月二二日付五面、★は筆者による補足)。
しかし、このような一言が添えられている例は極めて少なく、多くの場合は客観的事実に否定的な意見を織り混ぜた一面的なものになっています。
わたしは、こうした一言をただ添えてさえいれば、否定的な意見を書くことのネガティブな側面が消えるというわけではないと思います。一方で、少数者を否定するようなことを書く以上は、こうした言葉を添えることが最低限求められるモラルだとも思います。
メディアは、「こういう状況だからよくない」という論調です。
わたしは、メディアは本来、「こういう状況だ」という客観的事実を伝えて、それに対する意見の形成は情報を受け取った各々に任せるべきだと思います。批判の矛先にあるのはトランプ大統領であり、人間を相手にしている以上は否定的な表現を多用するべきではありません。そうでなければ、メディアが否定的な世論と同化、或いは世論を操作しているような状況になりかねません。これを回避するためには、あくまで中立的であって欲しいです。
こうしたことから、トランプ大統領のいう「メディアが意図的にトランプ大統領に不利な情報を流している」という意見には一理あります。メディアの報道には、意図的であるにしろ、ないにしろ、客観的事実の中に「賛否」の意見に伴う感情が混ざっていることがあります。
新聞に否定的な記事を書いたとしても、少数派に配慮をした上で「社説」を書いていれば問題はないと思います。問題があるのは、それ以外の一般記事にライターの否定的な感情が混在したり、或いは、インタビューした複数の識者のいずれにも少数派を代表する意見が含まれないことです。
重ねていいますが、メディアは中立的であるべきだと思います。言うまでもなく、新聞やテレビの報道はライターの意見を述べる場ではないのであり、全利用者が情報を公平に受けとることが大事なことです。SNSなどで信憑性の低い情報も混在して飛び交う中で、既存のメディアの報道にさえも偏見が含まれるのであれば、利用者は何を信じればいいのでしょうか。
わたしは、トランプ大統領がとる、否定されたら否定で返すようなやり方は道徳的に問題があると思います。トランプ大統領のツイートが報道されると、その軽率さに、インターネット上で大っぴらに書くような情報ではないと思うこともあります。
しかし、これはわたしの個人的な意見です。「道徳的に問題がある」、「軽率」というのは、主観であり、客観的事実ではありません。
こうした主観的な要素について、メディアが意見を述べることには慎重になるべきだと思います。メディアが一般報道で主観を述べると、「浅い」、「軽率」のようなイメージを持ってしまいます。ライターの方には申し訳ないのですが、例え「社説」だとしても、トランプ大統領のツイートについて「大統領にふさわしい手法や態度ではない」(読売新聞 二〇一七年一月二二日付 三面)のような否定は抽象的かつ対案がないことから「軽率」だと思います。
メディアに対して否定的になり、特に感情に任せたようなツイートをしたトランプ大統領には問題もあります。しかし、対案を示すこともなく単純に否定するだけのメディアもまた、ライターの意見、感情に任せた報道になってはいないでしょうか。例え「社説」といえど、公共性の強い報道機関の情報においてライターの感情が入り込んでいい余地はないと思います。
客観的事実による「情報の正確性」、あらゆる意見に耳を傾ける「中立性」があって初めて、公共性を意識した報道になるはずです。最近のアメリカ大統領に関する報道を利用していると、メディアの意識、特に中立性が揺らいでいるな、と思います。