2017年10月22日日曜日

投票日です

 本日は、衆議院議員選挙の投票日です。

 投票することの意味と、争点のひとつである、憲法改正について、考えました。

 まずは、投票することの意味について。

 選挙では、政権政党VS野党という構図が明確になれば、政権に批判的な有権者にとって、選挙が行われることに対する納得感は増します。
 しかし、自由民主党と公明党の連立政権に迫る議席数を持つ野党が存在しません。結果的に、政権政党の一強体制ができています。
 政権政党を支持しない有権者による批判票は野党に向かいますが、そのうち無党派層の票は、特定の政党には向かいません。また、反自由民主党の有権者を多く含んだ無党派層が投票を棄権すれば、投票率が低い中で、支持者の比較的多い自由民主党が有利になります。

 投票率が低くなる一因には、当然ながら、政治不信が挙げられます。特に、無党派層で政治的関心のある有権者は、政治不信が強いと考えられます。

 わたしは、国会での論争だけでなく、選挙活動そのものも、政治不信を強める一因になっていると感じます。
 選挙の度に、増税の先送り、育児支援を新たな公約として持ち出す政党が出現します。新党に移籍した途端に、主張をがらりと変える議員がいます。彼らの主張に、政治的な信念はありません。
 そんな彼らは、わたしたちに対して、一体、何をもって信じてくれというのでしょうか。他人とは、基本的に私利私欲のために行動する、信用できないものだとさえ考えさせられます。
 しかし、わたしたちは、信じられない他人を代表として選んで、政治を委任しなければなりません。
 それでも、選挙があれば、投票所に足を運ぶのは、政治に対して、何かしらの意見を持っているからです。それは、政治に対する責任感でもあります。

 わたしは、支持政党がないとしても、また、政党のことを知らないとしても、有権者は投票に参加するべきだと考えています。

 支持する政党、候補者がないから投票を棄権するという有権者もいるはずです。
 しかし、彼らには、白票を投じるという選択肢もあるはずです。有効投票にならないため、選挙の結果には影響しません。ただし、性別、年齢などの、有権者本人のデータは統計的に利用されます。
 政治家は、投票する有権者の支持を得ようとします。そのことを踏まえると、投票すること自体に意味があります。

 投票を棄権することは、政治家に白紙委任して、政治に責任を持たないことです。
 投票を棄権した有権者は、選挙後に、どのような立場をとるのでしょうか。政治に対して、不満を持つことがあるかもしれません。たとえ不満を持ったとしても、彼らは、投票をした有権者と意見を闘わせる立場にあるのでしょうか。

 信頼できる政党、候補者がないときでも、白票を投じることはできます。それも、有権者本人の立場を示すことであり、意味のある選択肢です。

 信用できないからこそ、政治を変えることが必要になります。政治不信を棄権の言い訳にするのではなく、投票をする根拠にするべきです。

 次は、憲法改正について。

 選挙の争点のひとつである、憲法、特に、第9条の改正については、世論の賛否が拮抗しているようです。改正そのものの是非はともかく、わたしは、その議論が今日に至るまでの国会プロセスに、大きな問題があるように感じます。
 第9条の改正をするための足場は、着々と整備されてきました。集団的自衛権の行使を認める閣議決定と、それによる解釈改憲、安全保障関連法の採決です。
 一連の、自衛隊の軍事的な活動範囲の拡大は、反対する世論が強い中での判断でした。賛成派の国民の比率が内閣支持率よりも低かったことや、法案が成立する過程で内閣支持率が低下したことを考えると、政権の支持者の中でも賛否が分かれると考えられます。政権は、支持者の意見をも含めて世論を無視しています。
 当時、国民の反感を買い低下した内閣支持率も、回復してきました。政権は、今回の選挙で議会の多数を占めれば、それを憲法改正の正統性を示すための根拠にすると考えられます。

 野党の議員が、「現政権下での憲法改正の議論には応じられない」と主張する場面が目立ちます。
 この、「現政権下の」という条件づけについて、従来の議論であれば、「政権政党の打ち出す政策に、何でも反対する野党」、というイメージを持つことがありました。 政策の内容を吟味しないで、門前払いするイメージです。
 しかし、今回は、現政権下の国会プロセスに対して疑念を抱く市民の意見を反映した、ひとつの正論だと感じます。

2017年10月11日水曜日

地域政党の国政進出に思うこと

 最近、政治について考えていること。

 先日、衆議院議員選挙の告示がありました。東京都知事を党首とする、希望の党が、各種メディアで注目を集めています。
 わたし個人は、希望の党の国政への進出について、強い不信感を持ちました。
 批判は、正確な情報に基づかなければなりません。そのため、希望の党について、情報を得ることから始めました。それは、議員を選出することの意味について、改めて考える機会になりました。

 以下、「地方選出議員と東京都知事の関係」、「地方の自治」の観点から、わたしなりの問題提起をします。

 まずは、地方選出議員と東京都知事の関係について。

 衆議院議員選挙の小選挙区において、個々の議員は、各選挙区の市民の代表です。わたしの出身地である、高知県のような地方では、選出される議員が少ない分、都道府県の代表としての意味合いが強まります。

 議員が政治活動を続けるためには、選挙区の市民からの支持が必要です。そのため、基本的には、選挙区の市民の意見を代弁します。
 しかし、希望の党の地方選出議員には、支持を取りつける必要のある相手が、選挙区外にもいます。それが、東京都知事です。選挙区の利益と、東京都知事の利益が相反するとき、議員は、両者の板挟みになります。

 希望の党の地方選出議員は、選挙区の利益になるとしても、東京都知事の利権に反する政策を議論できる環境にはありません。
 例えば、東京都に集中する首都機能の移転を含めた地方分権については、議論できないかもしれません。地方選出議員が他の都道府県である東京都の知事の顔色をうかがいながらでは、選挙区の市民の代表とはいえません。
 そのような政党の地方選出議員が、選挙区の利益を優先できるのか、また、政治的に中立でいられるのかは、疑問です。

 そして、地方の自治について。

 今回の選挙では、希望の党が国政に参入して、全国規模に候補者を擁立しています。これについて、地方の自治を蔑ろにするリスクがあると感じます。

 繰り返しになりますが、希望の党は国政政党ですが、党首は一都道府県知事です。知事が党首である以上、政党内では、議員との間に上下関係が発生します。そして、知事は相当な発言力を持ちます。

 希望の党が候補者を擁立することについて、その是非はともかく、東京都では利点もあります。市民にとっては、知事を支持する意見を国政に反映させる手段になります。
 しかし、他の道府県ではどうでしょうか。党首を一都道府県の知事としながらも、他の道府県に候補者を擁立しています。わたしは、そのこと自体が、地方の市民の政治観や、自治権を軽視していると感じます。

 地方の市民は、東京都知事ではなく、候補者を評価します。しかし、候補者は、政治活動を続けるために、東京都知事の顔色をうかがいます。
 希望の党の候補者に政治を委任することは、間接的に、党首である東京都知事に政治を委任することになります。

 わたしは、党首が一都道府県の利益を代表することを問題視しているのではありません。いずれの政党の党首も、国会議員であれば、各選挙区の市民の意見を代表しています。
 例えば、自由民主党の党首は、山口県の市民の意見を代表しています。その意味では、希望の党に、自由民主党との差はありません。
 問題は、希望の党の党首が、国会議員ではなく、地方自治体の政治家であることにあります。それによって、国政における、自治体間の対等性が揺らぐ懸念があります。

 わたしは、一地方自治体の首長の意見が、国会議員の中でも、特に他の都道府県から選出された議員の政治活動を制約することについて、地方の有権者として問題意識を持っています。

2017年6月28日水曜日

物語の勇者

 わたしは、4月から小説を読んでいる。実に、中学生のときに読んで以来である。
 以前は、頻繁に物語を読んでいた。しかし、最近は、読みたいと思いながらも、結局、他のジャンルの書籍を手にすることが多かった。だから、今回の読書は、わたし自身、物語の世界観を楽しむというだけでなく、懐かしさという意味で、格別のものがある。

 読書では、物語の主人公と、その他の登場人物の関係について、いろいろと考えを巡らす。

 わたしは、読んでいるうちに、以前とは物語に接する視点が変わっていることを自覚した。物語の主人公はもちろん、その他の登場人物の視点を、以前よりも重視して考えるようになった。
 物語の主人公は勇者なのか?敵として描かれる登場人物の立場から見ると、主人公はどのように見えるのか?
 そのような議論は、結局のところ、「正義とは何なのか」を考えることであり、「敵対する価値観がぶつかったときに、どのように解決をするのか」、「敵が悪であれば、抹消してもいいのか」という自身への問いかけである。

 物語とは、一般的に、善人は報われて、悪人は懲らしめられるという教訓を示すものである。しかし、善人が報われる、悪人が懲らしめられる過程は、必ずしも正当な手段によるとは限らない。

 身近な、昔ばなしに置き換えて考えると分かりやすい。
 物語の主人公が、「悪人の家宝を窃盗、それを利用して裕福になる」というパターン、「悪人と戦い、打ち倒して称賛を得る」というパターンが、定番である。物語では、主人公が幸せになってハッピーエンドであるが、悪人にも、悪人の生活があるのである。法律のない世界が舞台であるとしても、窃盗や暴力により資産や名誉を得る主人公が、読者の手本になり、教訓を与え得るのかということには疑問が残る。
 だから、わたしは人間の人格形成に影響するであろう「絵本」のあり方に、疑念を持っている。物語の勇者は、大抵、敵に奇襲攻撃を浴びせて、生活を破壊する。そして、ときには、残虐な手段をとることもいとわない。

 物語を読む上で、どの登場人物に視点を置くのかによって、主人公のイメージはかなり違ってくる。
 
 例えば、猿蟹合戦。子蟹が、仲間とともに敵討ちを果たす物語。悪は懲らしめられるという教訓であり、ここで、悪とは猿のことを指している。
 しかし、子蟹が猿を懲らしめるためにとった、「敵討ち」という手段の正当性には疑問がある。子蟹もまた、猿と同様に悪ではないのか。
 例えば、柿の木の立場から見ると、猿蟹合戦の物語は次のようになる。

  1. 蟹「早く芽を出せ柿の種、出さぬと目玉をちょん切るぞ」、と表現。
  2. 柿の木が急速に成長。
  3. 更に、蟹は柿の木に対して、早く実をつけるように促す。
  4. 柿の木はたくさん実をつける。
  5. 猿が登場、蟹は青い実を投げつけられて潰される。

 柿の木の立場から猿蟹合戦を考えると、蟹が悪であり、脅迫により、他人を思い通りに動かそうとするとバチが当たるという教訓を示している。結果的に、柿の木は、蟹による脅迫から解放される。
 一方、猿は、蟹が柿の木を脅迫していた事実を知らないだろう。猿は、蟹に青い実をぶつけると潰れることは容易に想像できたのにも関わらず、「実をとって欲しい」という要求が耳障りだという身勝手な理由で投げつけた。猿の行為は、結果的に柿の木を守ったとはいえ、正当性はない。

 物語では、蟹が潰れると、たくさんの子蟹が産まれた。子蟹たちは、敵討ちのために、栗、蜂、牛糞、臼と共謀して、猿を懲らしめることを計画。そして、猿の留守を見計らって、住居に侵入、猿の帰りを待ち伏せて奇襲攻撃で畳み掛ける。
 まず、猿がいろりに当たると、加熱された栗が猿の目をめがけて体当たり。猿がやけどをして水瓶に向かうと、待ち構えていた蜂が傷口を突き刺す。そして、猿は慌てて外へ飛び出そうとしたが、待ち構えていた牛糞に足をとられて転倒。屋根の上で待ち構えていた臼が、猿の上に飛び降りてとどめ。
 敵討ちは成功した。しかし、子蟹たちは、復讐心から共謀して、計画的に猿への攻撃を遂行した。物語は、めでたしめでたし、という言葉で締め括られる。

 結局、見方によっては、蟹、猿、子蟹の全てが悪である。安易に他者を攻撃できる社会であり、物語の全体を通しては、法律がないことは恐ろしいという教訓を示している。

 もちろん、読み方はひとによる。物語の主人公に感情移入する読み方もあるだろうし、むしろ、そちらの方法が一般的である。わたしは、登場人物の多様な価値観を意識するが、自身の考え方や、他のジャンルの書籍の読み方が影響しているのだろう。

2017年5月27日土曜日

食虫植物、その後

 昨年、わたしの中に食虫植物ブームが巻き起こりました。以前に、わたしが世話をしている食虫植物を紹介したのですが、今回は、現在の様子を少しだけ紹介します(以前に紹介した内容は、「ハイブリッド植物」を参照してください)。今回は、完全に趣味の内容です。

-食虫植物の紹介-

ウツボカズラ(ジェントル)

 ウツボカズラ(ジェントル)は、室内管理で冬越しをして、たくさんの捕虫袋をつけました。手をかければ植物は立派な姿を見せてくれる、ということを実感します。
 続けて、ウツボカズラ(ダイエリアナ)。
今年に購入したウツボカズラ
 1年でこんなに、・・・というのは冗談で、これは、今年に購入したものです。行きつけのショッピングモールで見つけたのですが、捕虫袋をもぎ取られまくっていて、完全に値崩れしていたものを購入しました。これからの、梅雨から夏にかけての成長期に期待!
ウツボカズラ(ダイエリアナ)
そして、こちらが昨年に購入したものです。4層分ほど成長しました。
 ウツボカズラの世話では、実際に触ったり、成長を観察することで得られる発見が多く、驚きに満ちています。わたしが気づいたことを、3つほど紹介します。
 1つ目は、見た目によらず、植物の構造が頑丈で、幹、葉、蔓ともに、固いことです。幹を指で摘まんでも、植物本体に食い込むような感触はありませんし、蔓は形状が一定で、その先の捕虫袋が倒れないように支えています。
 2つ目は、捕虫袋のつき方についてです。わたしは、「ポケットモンスター」に登場する、ウツボカズラのキャラクター、「ウツボット」のイメージもあってか、捕虫袋の蓋の上に蔓がついていて、それにぶら下がっているのかと思っていました。しかし、実際には捕虫袋の下に蔓がついていて、それに固定されていることに、驚かされました。
 3つ目は、ウツボカズラが上に伸びる過程についてです。1層ごとに、1枚の葉がつくのですが、葉は閉じた状態で成長をします。そして、ある程度成長すると葉が開くのですが、何と、その中から、入れ子状に新しい葉っぱが出てくるんです。茎や幹の周りに枝がつくという、よく目にするパターンではなく、葉っぱの中から葉っぱが、その中から、また葉っぱが・・・、という連鎖に、飽きがきません。
ハエトリソウ
 続いて、ハエトリソウについて。冬を越して、完全に屋外管理に移行すると、葉っぱではない何かが、中央から伸びてきました。
ハエトリソウのつぼみ

ハエトリソウのつぼみです。変化に不意をつかれながらも、茎が伸びる様子を見ながら、開花を楽しみにしています。

 わたしにとっては、よく知っているはずの、見慣れている植物です。しかし、気がつけば、たくさんの捕虫器がついていたり、或いは、突如、つぼみが現れたりもします。斯くして、わたしの中の食虫植物ブームは、過ぎていくどころか、ますます目が離せない状況になっています。
 わたしが知らないことを経験させてくれる。それが、エキゾチックな植物のよさです。ささやかな、非日常経験をありがとう。そして、これらの植物を大事にしなければと、いっそう、強く思います。

(いずれも2017年5月26日に撮影しました)

2017年4月24日月曜日

 恵まれた環境というものは、あれば気がつかないし、なければ、それに伴う不利な状況に苦労するものである。もちろん、興味はひとそれぞれに違っている。そのため、何を恵まれた環境だと考えるのかもまた、ひとそれぞれに違っていて、各々の主観による。以下、人生について、わたしなりに思うこと。

 人生どうやったら面白くなるのか、ということは常に考えなければいけない。運がいいこととは、本人の望む機会が、外部から与えられている環境のことをいう。もちろん、それを生かすには、本人の努力が必要である。
 反対に、運が悪いこととは、本人の努力や、才能とは関わりのないところでハンデを持つことである。努力をして、不利な状況を打開できなければ、その先にある本来の目的を達成する過程に、手を着けることすらできない。

 わたしは、運がいいことの事例として、居住地が都会であることが挙げられると思っている。都会では、やってみようと考えたことに何でも手をつけられる環境がある。娯楽に際限なくのめり込むような事例も考えられるが、向上心があればチャレンジの機会がいくらでも与えられる。そういう意味で、都会は恵まれている。
 例えば、芸能活動をしてみたい、競技人口の少ない運動をしてみたいと考えたとしても、田舎にいては本人の行動力に関わりなく機会はない。個人の能力とは関係のないところで、ハンデを負うことになる。

 その他に、居住地によるハンデの事例として、賃金の格差がある。同一労働、同一賃金を求める声が上がるなかで、都会と田舎の賃金の格差は依然として、とても大きい。
 都会の出身であれば、子どもの頃から高賃金のアルバイトができる。市販されている物品には、大抵、全国一律に設定された小売価格がある。そのため、高賃金は純粋に購買力の増加につながる。しかも、県外から単身、移住した子どもと比較しても、生活費のやりくりを考慮しなくて済むので、都会の子どもが有利な状況は変わらない。
 更にいえば、都会にはアルバイトの種類も膨大にあり、企業の規模にも大きな開きがある。テレビ局による募集など、田舎には滅多にないような募集が、しかも、本社で行われる。こうした比較的優位が重なり、都会の子どもは、同世代の子どものなかでも経験面で評価されやすくなると思っている。

 と、ここまでは、国内に限った話である。国外に目を向ければ、同じ時代に生きながらも、紛争地域での生活を余儀なくされている住民がいる。そのなかには、生きているだけで幸せだと考える住民もいるだろう。また、生きることに精一杯で、幸せを感じられる余裕のない住民もいるだろう。
 わたしは、実際のところ、日本人として、現在の生活には満足していない。一方で、地球人としては、紛争地域の住民など、日々、生きることすらままならない彼らのことを知ると、生きているだけで恵まれているとも思う。わたしは、日本の出身であることを心から幸せに思っている。
 ただし、日本に居住している以上は、運や幸せの度合いを比較する対象が国内にあることもまた、事実である。繰り返すが、恵まれた環境というものは、あれば気がつかない、なければ、それに伴う不利な状況に苦労するものである。わたしは、都会のよさに気がついたが、一方で、田舎のよさを見落としているのかもしれない。近年、都会の出身者が田舎へ移住する動向を考えると、やはり、田舎には田舎のよさがあるようだ。
 結局のところ、居住地との相性は、各々の主観によるので、地域間の優劣はつけられない。以上の内容も、地域間の優劣を判断するものではなく、わたしにとっては都会の方が好相性ということである。わたしには、わたしの運があり、その度合いに応じた改善の可能性を探り、努力すること、これにつきるんだと思う。

2017年3月28日火曜日

スーパーの閉店に思うこと

 出身地のスーパーが、三月いっぱいで店を畳む。唯一のスーパーであり、地域からスーパーが消える。

 わたしが幼少の頃に、母ときた記憶がある。母とレジに並んでいると、後ろに並んでいた高齢の女性が、わたしを女の子だと間違えて、「可愛い」と言ってくれた。母が、男の子だと伝えると、女性は謝ったが、わたしは嬉しかった。それだけの記憶であるが、わたしの大事な記憶の一つになっている。

 わたしは、今日、そのスーパーへ足を運んでみた。買いたいものはなかったが、閉店前に、店内の様子を見てみたかった。

 店の前へ行き、昨日に見た「三割引」の貼り出しが、「五割引」になっているのを見て、いよいよ閉店なんだと実感した。貼り出しには、「27年間の御愛顧を感謝しております」と書いてあった。わたしが生まれるより前から営業しているスーパーが閉店すること、そこにわたしがいることを感慨深く思った。

 店内は、精肉など最小限のものを仕入れて、惣菜は作っていないことが見てとれた。「何か買わなきゃ」と、店内を見て回った。

 「□□くーん」、親しげに誰かを呼ぶレジの女性の声が、お世辞にも広いとはいえない店内に鳴り響く。ここにも小さな社会があって、こうした平和な日常が明明後日まてでおわる。

 滅多に立ち寄ることのなかったスーパーであるが、ないと寂しい。利用しなくても、スーパーが日常の景色の一部になっていたことに気づいた。

 母と以前にきたスーパー。当時幼かったわたしが成長して、今日は付き添いなしで買い物にきている。

 売り場でビニール紐を見つけて、引っ越しする身内の荷づくりのために必要であることを思い出した。ビニール紐は「割引対象外」の籠の中にあり、高価だったが、そのスーパーの売り物という付加価値がある気がして、自然と手がのびた。今月で店をしまうスーパーと、来月に新居へ引っ越しする身内が対照的で、ビニール紐が時代の変化をつなぐ象徴のように感じられた。

 わたしが利用しない間にも、スーパーは営業を続けていて、今日、幼少の頃の記憶を思い返す機会をくれたことを、とてもありがたいと思っている。閉店前に買い物することができてよかった、本当に。

2017年2月10日金曜日

権力者の表現の自由

 わたしは、不用意に否定的な行為をすることが嫌いです。わたしは、他者の価値観の違いを認めることが大事だと思いますが、否定的な行為を好むような他者の価値観は認められません。

 最近、アメリカ大統領についての報道から学ぶことがとても多いように思います。
 メディアや権力者が発信する意見について、従来は、公共性、協調性などを意識した「形式的なパターン」があったように思います。現在では、それが変わったように思えますし、そのことに影響されるひともいます。そうしたことは、他者に対する意見の発信のあり方を見つめ直す機会になりました。
 例えば、アメリカ大統領に対して不信感を持っているひとが過度に否定的な行為をすれば、わたしはその否定的な行為を否定します。そして、アメリカ大統領が否定的な意見を発信すれば、同じくその内容が過度であれば否定します。

 わたしは、何をどのように否定するのかという否定の内容だけではなく、否定という行為そのものが否定されるべきものだと思います。何だか、ひとを否定することで自身が相対的に正しいということをアピールしようとしているように見えるからです。そうすることで自身の評価が上がるわけではなく、むしろ、評価を下げているのに。

 わたしは、アメリカ大統領の不人気が彼の身内のビジネスに波及したことについてメディアを通して見聞きしました。その報道内容は、政治家に対する世論の反発が他方面に波及したことを伝えるものというよりも、大統領がSNSで発信した否定的な意見を焦点にしていました。
 わたしは、メディアの視点が偏重していることは問題だと思いますし、報道内容が事実だとしても、客観的、中立的に捉えられているとは限らないと思いますが、今回の論点は他にもあります。彼の発信が、公私混同に当てはまるのか、それが問題です。

 結論からいうと、彼の立場を考えれば際どい判断になるものの、わたしは公私混同ではないと思います。 例え政治家とはいえ、一国民です。大統領用のSNSのアカウントを使って発信したのであれば、その内容は政治的な色合いを持ちますが、プライベートなアカウントを使って意見を発信する表現の自由は保障されるべきだと思います。
 例えば、彼の身内のビジネスに否定的な措置をとった店舗を利用しないことを支持者に求める意見を発信すれば、それは対抗措置であり、政治権力を私益のために濫用することになります。一方、彼の発信は、否定的な措置をとった店舗が気に入らない、自身は身内のビジネスを評価している、という内容でした。政治権力を濫用するような性格の発信ではないし、一国民として表現の自由を行使したことに過ぎないと思います。

 そこにあるのは、法的な問題ではなく、道徳的な問題です。わたしは、今回の報道について、メディアの視点を評価しませんし、大統領の発信も評価しません。どちらも、社会的な影響力が強いにも関わらず、感情が先走っているように思えます。