2016年9月18日日曜日

ラッキーカラー

 全身真っ黒。身に付けているものの話。

 2か月半ほど前に、行き付けのショッピングモールに行きました。買い物をして、さあ帰ろうとしたとき、ふと催し物コーナーの衣料品店のセールに立ち寄りました。現在メインで使用している鞄より大きめの鞄が欲しいと思っていたわたし、見るだけならタダだし見てみよう。そういうわけで立ち寄った売り場で、目ぼしい鞄を2つに絞りました。

【候補1】トートバッグ
 紺と赤のツートンカラー。
 内壁に防水素材を使用している。
 大きめ。
 型はしっかりとしている。

【候補2】ショルダーバッグ
 黒。
 防水ではなさそうだけど、少しは耐水できそう。
 大きくはない。
 型は新品とは思えないくらい付いていない、ふにゃふにゃ。

 実はわたし、トートバッグが欲しかったんです。大きめで型もしっかりしていて、なかなかの使用感。ただし、使い慣れない色であり、肩に掛けてみて居心地がよくない。気に入ったんだけど、使いたいかと言われると、そうでもないかなって思ってしまうような感触。しかし、元々とても高価な鞄なのでそれに目が眩んで購入してしまいました。何か心に悶々としたものを持ったまま車に戻ったわたしは、自分がどうしようとしているのか意思を整理しました。

【結論】
 コストと品質を天秤にかけて、その鞄には価値がある。誰かへの贈り物にするなら、自信を持って選べるくらいの品質。しかし、決定的な問題は、「わたしの色じゃない」ということ。ひとに贈る予定もない。

 結局のところ、わたしはそのトートバッグを、黒のショルダーバッグと交換しました。何か心の悶々としたものが取れました。

 わたしにとって、「黒」は特別な色なんです。とにかく身の回りの物には好んで黒を選んできました。
 小学校の入学のときの上履き入れも、筆箱も、ズボンも自分で選んだものは全部黒でした。髪だって染めたことはないです。まあ、茶色が好きだから茶髪にするというわけでもありませんが。
 わたしは、「黒」を美しい色だと思っています。特に、深い黒、"漆黒"の生地を見たら見とれてしまうことだってあります。

 家族は、黒が似合うと言ってくれる一方で、地味だと、他の色を身に付けさせようとしてくれます。わたしは、黒が地味だという感覚がないのですが、今年度は気持ちの変化を求めて、暖色系の衣料品などを選んできました。
 ところが、そのとき鞄を交換して気が付きました。わたしの好みに反する色を敢えて身に付けることは、疲れるということ、奇抜な色は似合わない、寒色系が似合うということ。

 翌日は、今年度封印していた全身真っ黒、無地の黒、下着だってほぼ黒でまとめました。
 何だか、以前の自分の服装に戻したことで、自分の殻を破ったように感じました。意識的に変化させていたことを元に戻して、殻を破ると感じることは、一見、矛盾していると捉えられそうです。しかし、殻を破るとは、意識を変化させること。わたしは、好きな服装をしないよう自分に制約をかけて、不必要に自分の行動を縛ることで、変化を感じていたということです。

 鞄を交換した後、服屋に立ち寄って、久々に黒の下着を購入して行きました。元に戻すことで成長を感じられることもあるんです、清々しい。

2016年9月3日土曜日

初めての寄席

 わたしは、趣味に関連して、どうしても体感してみたい催し物がありました。それは、落語を観ること。
 そして先日、ついに初めての寄席を観てきました。わたしの目当ては、「古典落語」だったのですが、現代の寄席のスタイルは漫才など色々な見せ物が混在する演目の組み方をするようでした。

寄席の会場、落語を観てきました

 わたしは、小学生のときに読書を通して「古典落語」、「ショートショート」にのめり込みました。どちらも"落ち"があり、物語の後の余韻が楽しい。特に落語は、同じ内容をシリーズを変えて2周読むほど熱中しました。滑稽ながら、知的な物語に、小学生ながら感動を覚えました。

 その中で最も印象が強いのが、有名な『じゅげむ』です。ただし、印象が強いといっても、それは、唯一、面白いと感じなかった物語だからです。子供に縁起のいい名前を付けようとして、手当たり次第に縁起のいい言葉を付け足してもの凄く長い名前になるというストーリーなのですが、正直なところ、単調で落ちが序盤から読めてしまうので、書籍で接すると面白くありませんでした。
 これを、いかに軽快に話すのか、この落語の見せ場は落ちではなくて、その過程にあり、以前から観てみたいと考えていました。

 実はわたし、小学生のときに『じゅげむ』を読んで以来、"じゅげむさん"の名前をフルで言えます。物語で、何度も繰り返されるので、"じゅげむさん"の名前をフルで言えるようになっていました。
 些細な自慢なのですが、フルで言ったところで、合っているかどうかなんて大半のひとには分かりません。"円周率"を何桁も言えるひとたちもこんな感覚なのかな。

 それはさておき、これまでは観る機会がなかった落語を、今回、ようやく観ることができました。

上は会場の看板、下には出演者名が書かれていた

 入場ゲートをくぐると、ステージを奥に、左右には座敷席、中央には現代的な椅子が並んでいました。その、和を基調としながらも、完全に和ではない異様な空間に驚きを感じて、同時に期待が膨らみました。

 わたしは右の座敷席の最前部に正座して、寄席を観覧しました。情景として全く風流ではないにしろ、空調で揺れる提灯が雰囲気を作っていました。
 実際の寄席では、落語家が入れ替わると座布団を返したり、小話から物語に入るタイミングで上着を取ったりと、当然のように行われていた"しきたり"が、とても新鮮でした。

 初めてのわたしにも、落語家の実力はある程度分かるものでした。当然、言葉や身振りで状況を伝えるわけですが、分かりやすい落語は、登場人物の語調に、より大袈裟な差を付けていて、理解するのに疲れを感じませんでした。ただ話すだけではなく、上手な話し方というものはあるようです。

 ただし、思考による疲れと、肉体的な疲れは違います。正座に慣れているつもりだったわたしですが、同じような姿勢で観ていると疲れは溜まるもの。最近は椅子に座ることが多くなったせいか、何度か足を釣りそうになりました。

 今回の寄席で残念だったことは、ときの話題として、ある性犯罪の被疑者の話で笑いを取ろうとした例が3回もあったことです。そんなことでは笑えませんでした。
 いくら相手が性犯罪の被疑者とはいえ、ひとの暗い話題を楽しむことは非道徳的です。落語家や漫才師が性犯罪を受けたわけではないと思います。
 ただし、これで笑っていた客もいました。とても、不快でした。

 類例として、わたしは、テレビのワイドショーの音声が聴こえてきて、それを不快に感じた経験があります。そのときは、読むはずだった原稿が表示されないことで言葉に詰まって泣き出した他の放送局のキャスターの話が、笑いのネタに利用されていました。わたしは、堪らず、選局し直してもらいました。
 わたしは、この日の落語の小話が、ひとの苦しみを笑いのネタにするテレビのワイドショーの負の側面を見ているような気がして、とても苦手に感じました。考え方は、ひとそれぞれだと思いますが、たとえ楽しいと感じても、笑いの質を考えると大っぴらに楽しむべきではないことはあります。

 そして、物語の登場人物が罵声を浴びせる場面で、落語家と目が合ったら気分のいいものではありません。
 そういう場面では、目が合った客にとっては場の雰囲気が極端に変わり、気が散ります。落語家の目線の先にいた、反対側の座席の客の表情を見ても、笑顔が消えて話にのめり込めない様子を感じ取れました。
 それを見ていたであろう落語家は、気が付かなかったとは考えられませんでした。客本意でないことは、理性の問題だと思いました。

 再び、入場ゲートをくぐって、非日常的な空間から元の世界に戻りました。寄席のいいところ、問題点がそれぞれ見付かりましたが、全体としては、満足な経験ができたと思っています。気分が晴れやかになったことで、元の世界もどこか違う感じがしました。

結局のところ、この日に『じゅげむ』の公演はありませんでした。客引きの男性によると、演目は客を見て決めているのだそう。どうやら、特定の演目を観ようと思って、観られるものではなく、それを観られるのかどうかは、予め分からないようです。

 この日は、知っていた落語を2つ観ることができました。「平林」、「化け物使い」という演目だったのですが、やはり実際に観ると面白いものでした。そして、『じゅげむ』を観たいという思いが、更に強くなりました。

 初めての落語ということもあって、目に映るものは新鮮で、感動しました。また観てみたいと強く思いました。2回目には、2回目の感動があるはず。期待が膨らんでやみません。