2016年4月15日金曜日

いたどりの採集

 昨日の日記です。

 山間の竹林でいたどり(山菜)を発見して、採集をすることにしました。持っている荷物を置いて藪に入り、足場を確かめながら進みました。
 すると、少し手をのばせば届くところに、いたどりがポツリポツリと立っているのが見えました。道なき道を掻き分けて進みながら収穫をします。

いたどり(中央)、場所は麓

採集したいたどり
 上記の画像(中央)がいたどり。どうやって食べるの?そもそも食べられるの?なんて思われるかもしれません。皮を剥いたら、竹のように節のある構造になっていて、その後に酸味を抜く手順が必要なようですが、強い風味はないので食べやすいです。

 どれくらいの量が集まるかな?一度戻った方がいいのかな?なんて思いつつ、どんどん奥に進みました。
 藪を抜けると、・・・道路に出ました。こんなところを通らなくっても来られたのに!


通り抜けてきた藪
道路に出た
 それはともあれ、引き返して、脇道に逸れました正確には道ではないのだけど、脇藪?そして、見つけた、見つけたを繰り返すうちに茂みの奥へ進みました。

 斜面を下り、枯れ草や朽ちた竹で足場が見えませんでした。そして、足場が崩れるので、足場をより確かめるように歩きました。
 採集するときには、重心をあまり動かさないように意識して、手をのばして、届かせるために必要最小の動きで身を乗り出しました。これ以上は進めないところでは、葉っぱをつかんで手繰り寄せて採集しました。


 行き止まりなので戻ろうと向きを変えると、掻き分けた草がそのかたちを留めていて、既に道なき道ではないのが分かりました。行きはよいよい帰りは怖い(童歌の『通らりゃんせ』?)の逆バージョンで、行きは道なんてないのに帰りはできていることに、気持ちの上でも足取りを軽く感じました。


 斯くして、片手に握っていたいたどりの束は、膨らみ、膨らみ、膨らみ、抱えるほどの束になりました。山菜と言えど、これだけの量になると、ずっしり重みを感じました。
 収穫して引き返し始めていた藪の中で、視界が開けたおかげか、いたどりに気が付きます。そして、戻り道の取り残しは欲しくなるものです。太くなった束を抱えながら、藪を抜けて元の道に戻りました。

2016年4月11日月曜日

することはしないこと

 何かをすることは何かをしないこと。最近、そう気が付きました。こだわりなんていうのはその典型で、左足から靴を履くひとは右足から靴を履かないし、右足から階段を上るひとは左足から階段を上りません。誰しも何らかのこだわりはあると思います。
 靴の履き方や、階段の上り方は、些細な問題であり、右足からであろうと左足からであろうと時間のロスはないと思うかもしれません。ところが、順序を間違えて気になるなら、何かしらのロスが出てきます。もし反対の足からやり直したくなったら重症です。分かりやすいかたちで時間のロスが出てきます。
 癖ならともかく意識しているならそれはこだわり。先の例を言い換えれば、右足から靴を履かない、左足から階段を上らないこだわりです。

 何かをしないルールがなぜあるのか?何かしらの、本人にとって有益な事実があるからなのでしょう。それをしないと違和感があり気持ちのもやもやが発生してしまうとか、或いはいつもの行動をしているという安心感を持てる、のような理由があるはずです。

 わたしは財布の中の紙幣が種類ごとに分けられていなかったり、上下裏表が入り乱れていると、だらしがないと感じます。あるとき、自分でもこだわっているつもりのないところに、ルールがあることに気が付きました。それは紙幣の順番が、暗黙のルールとして存在すること。
 しかし、わたしは敢えてこだわりに反する事をする、そうすることで些細な未知の経験ができることに気が付きました。そこで、紙幣の順番を反対に変えてみました。周りのひとから見ると何でもないようなことでも、本人にとっては斬新な変化です。大げさな表現かもしれませんが、自分の中の常識を覆したという、新鮮な気持ちになります。

 ただし、何かしらのこだわりは必要だと思うのも事実です。わたしはトイレの紙を三角に折るようにしています。習慣になっているので、それをする理由なんていうものは分かりません。しかし、何かいいことをしているという満足感はあります。そして同じ個室に再度入るとき、自分が三角に折ったところを誰かが使って、三角に折り直していると自分の行動が自分に返ってきたようで嬉しいものです。

 ひとが折ったトイレの紙を使って折らないで出てくることは、合理的な行動だと思います。するのが義務でもなければ、しないと道徳に反するわけでもない、気持ちよくトイレを使えるのであり、利他的な行動のために時間を割くことは任意です。また、それを使って使いっ放しにすることに罪悪感のようなものを感じるひとは折り直して出てくればいいのであり、そうすることで気持ちよく出てこられるのなら、それもまた合理的な行動だと思います。

 話を戻すと、することはしないこと。何かをしないためのこだわりなんて一見、自分を制限するだけで、不要なものに思います。だから、自分で納得できるものは変える価値はあると思います。ただし、その裏返しは、しないことはすること。しかし、価値のあるものは変えない、そのことも大事だと思います。