本日は、衆議院議員選挙の投票日です。
投票することの意味と、争点のひとつである、憲法改正について、考えました。
まずは、投票することの意味について。
選挙では、政権政党VS野党という構図が明確になれば、政権に批判的な有権者にとって、選挙が行われることに対する納得感は増します。
しかし、自由民主党と公明党の連立政権に迫る議席数を持つ野党が存在しません。結果的に、政権政党の一強体制ができています。
政権政党を支持しない有権者による批判票は野党に向かいますが、そのうち無党派層の票は、特定の政党には向かいません。また、反自由民主党の有権者を多く含んだ無党派層が投票を棄権すれば、投票率が低い中で、支持者の比較的多い自由民主党が有利になります。
投票率が低くなる一因には、当然ながら、政治不信が挙げられます。特に、無党派層で政治的関心のある有権者は、政治不信が強いと考えられます。
わたしは、国会での論争だけでなく、選挙活動そのものも、政治不信を強める一因になっていると感じます。
選挙の度に、増税の先送り、育児支援を新たな公約として持ち出す政党が出現します。新党に移籍した途端に、主張をがらりと変える議員がいます。彼らの主張に、政治的な信念はありません。
そんな彼らは、わたしたちに対して、一体、何をもって信じてくれというのでしょうか。他人とは、基本的に私利私欲のために行動する、信用できないものだとさえ考えさせられます。
しかし、わたしたちは、信じられない他人を代表として選んで、政治を委任しなければなりません。
それでも、選挙があれば、投票所に足を運ぶのは、政治に対して、何かしらの意見を持っているからです。それは、政治に対する責任感でもあります。
わたしは、支持政党がないとしても、また、政党のことを知らないとしても、有権者は投票に参加するべきだと考えています。
支持する政党、候補者がないから投票を棄権するという有権者もいるはずです。
しかし、彼らには、白票を投じるという選択肢もあるはずです。有効投票にならないため、選挙の結果には影響しません。ただし、性別、年齢などの、有権者本人のデータは統計的に利用されます。
政治家は、投票する有権者の支持を得ようとします。そのことを踏まえると、投票すること自体に意味があります。
投票を棄権することは、政治家に白紙委任して、政治に責任を持たないことです。
投票を棄権した有権者は、選挙後に、どのような立場をとるのでしょうか。政治に対して、不満を持つことがあるかもしれません。たとえ不満を持ったとしても、彼らは、投票をした有権者と意見を闘わせる立場にあるのでしょうか。
信頼できる政党、候補者がないときでも、白票を投じることはできます。それも、有権者本人の立場を示すことであり、意味のある選択肢です。
信用できないからこそ、政治を変えることが必要になります。政治不信を棄権の言い訳にするのではなく、投票をする根拠にするべきです。
次は、憲法改正について。
選挙の争点のひとつである、憲法、特に、第9条の改正については、世論の賛否が拮抗しているようです。改正そのものの是非はともかく、わたしは、その議論が今日に至るまでの国会プロセスに、大きな問題があるように感じます。
第9条の改正をするための足場は、着々と整備されてきました。集団的自衛権の行使を認める閣議決定と、それによる解釈改憲、安全保障関連法の採決です。
一連の、自衛隊の軍事的な活動範囲の拡大は、反対する世論が強い中での判断でした。賛成派の国民の比率が内閣支持率よりも低かったことや、法案が成立する過程で内閣支持率が低下したことを考えると、政権の支持者の中でも賛否が分かれると考えられます。政権は、支持者の意見をも含めて世論を無視しています。
当時、国民の反感を買い低下した内閣支持率も、回復してきました。政権は、今回の選挙で議会の多数を占めれば、それを憲法改正の正統性を示すための根拠にすると考えられます。
野党の議員が、「現政権下での憲法改正の議論には応じられない」と主張する場面が目立ちます。
この、「現政権下の」という条件づけについて、従来の議論であれば、「政権政党の打ち出す政策に、何でも反対する野党」、というイメージを持つことがありました。 政策の内容を吟味しないで、門前払いするイメージです。
しかし、今回は、現政権下の国会プロセスに対して疑念を抱く市民の意見を反映した、ひとつの正論だと感じます。
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